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世界史の漢王朝をわかりやすく解説【前漢・新・後漢が完璧に】




漢王朝 アイキャッチ

皆さんこんにちはルリアゲハです。

 

高校で世界史を勉強していると、漢王朝というのが出てきますよね。

そう、あの前漢や後漢、新なんかが出てくる中国の王朝です。

 

しかし、

アンバー
漢王朝全体の流れってどんな感じだったっけ?

ジェード
漢王朝ってどんな政治体制で、どんな人物が出てきたっけ?

という風にあやふやな人も多いでしょう。

 

大丈夫ですよ。

この記事を読めば、以下のことがわかります。

この記事でわかること

  • 漢王朝とはどんな王朝か
  • 前後の王朝も踏まえた流れ
  • 前漢と後漢の有名な皇帝
  • 郡国制と郡県制と封建制の違い
  • 新王朝の成立と滅亡
  • なぜ漢王朝は滅亡したか

 

 

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漢王朝ってどんな王朝?政治体制や文化は?

漢王朝というのは、始皇帝で有名な秦の次にできた中国の王朝です。

中国史全体の王朝でみると、漢はこの辺ですよね。

 

中国文明→殷→周→秦→前漢→新→後漢

→三国時代→晋→魏晋南北朝→隋→唐

→五代十国→宋→モンゴル帝国(元)→明→清

 

つまり、漢は秦と三国時代の間の王朝ですね。

 

しかし、

アンバー
具体的に漢はどんな王朝だったの?

と疑問に思ったかもしれません。

 

一言でいうと、

一度滅亡してまた復活した王朝

です。

 

そのため、最初にできた漢王朝を前漢、一度滅亡した後に復活した漢を後漢と言いますよ。

図で表すとこんな感じです。

前漢と後漢の図説

ルリアゲハ
ちなみに、前漢と後漢の間の時代にできた王朝はといいますよ。

 

政治の特徴としては、2つ前の周王朝と1つ前の秦王朝のいいとこ取りという感じです。

 

つまり、統治が緩すぎて失敗した周と、逆に厳しすぎて失敗した秦の折衷案の統治体制を行いました。

しかし、折衷案というのは一見良いアイディアのようで、そうではない場合が多いですよね。

 

漢王朝の折衷案な統治体制は最終的に失敗し、諸侯の反乱を境に秦のような厳しい政治に戻ります。

 

また、漢代の有名な文化として

  • 官学化による儒学の発展
  • 蔡倫による紙の発明
  • 仏教が伝来
  • 多くの歴史書が書かれる

といったものが挙げられます。

どれも後の中国に大きな影響を与えました。

 

ルリアゲハ
特に、儒学や紙は特に大きな影響を与えたもののひとつですね。

孔子が始めた儒学は皇帝中心の国を作るためにこの後の王朝でも採用されました。

また、は中国だけではなく、イスラームやヨーロッパにも伝わり、世界史全体に大きな影響を与えたと言えますよ。

 

中国史の全体の流れを知りたい人は

(世界史)中国の王朝まとめ(中国史の悩みが消える)

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という記事がおすすめです。

秦を反面教師に成立 前漢

漢王朝を成立させたのは劉邦(りゅうほう)という人物です。

劉邦は秦の末期に起こった混乱の中で台頭した人物で、戦いで項羽を破って権力を握りました。

立ち上がって社会を変えていく人

ルリアゲハ
秦の末期の混乱というのは、急激すぎる改革をした始皇帝の死後のゴタゴタのことですよ。

やっぱり始皇帝の改革に不満を持っていた人は多く、大規模な反乱がたくさん起きていました。

 

漢王朝を立てた後は、劉邦が漢(前漢)の初代皇帝になります。

ちなみに、漢の首都は長安に置かれましたよ。

 

しかし、劉邦は一体どのような政治を行ったのでしょうか?

 

政治の特徴としては、秦の制度をほぼそのまま採用しました。

 

しかし、始皇帝一代で滅んだ秦を反面教師にしたこともあって、郡国制という制度を新たに行います。

郡国制 秦+周÷2の統治体制

ジェード
郡国制って一体どんな統治体制なの?秦の郡県制とはどう違う?

と疑問に思ったかもしれません。

 

郡国制というのは、2つ前の周王朝と1つ前の秦王朝のいいとこ取りした統治体制のことです。

 

アンバー
どういうこと?

と思ったかもしれません。

 

それでは周と秦の統治体制と郡国制を比較してみましょう。

 

周が行っていたのは、諸侯に各地の支配を任せる緩い統治方法の封建制。

秦が行っていたのは、皇帝が役人に命令して支配する皇帝の力が強い郡県制という仕組みでした。

 

しかし、どちらも諸侯が好き勝手しすぎたり、厳しすぎて人々から反感を買ったりして、あまりうまくは行かなかったのです。

禁止

そうなったら、

]中央は皇帝が役人に命令して支配する郡県制を採用し、地方は封建制のように諸侯に任せよう!そうすれば、うまくいくのではないか?[/st-kaiwa5

という風に考えるのは当然ですよね。

 

そんなふうにして採用されたのが漢の郡国制です。

つまり、郡国制は周と秦のいいとこ取りした統治体制というのはそういうことですね。

統治体制の転換点 呉楚七国の乱

しかし、そんな名案のように思えた郡国制は劉邦の死後、すぐに崩れてしまいます。

 

軍国制が崩れたきっかけは呉楚七国の乱(ごそしちこくのらん)ですよ。

 

呉楚七国の乱は郡国制により地方の管理を任させた皇帝の重臣や親戚

[st-kaiwa5]朝廷が俺たちの領土を減らしてくる!このままでは領土全てがなくなるのではないか!

と危機感を抱きました。

彼らが朝廷に抵抗して起こったのが呉楚七国の乱です。

協力する人

実は劉邦の死後、皇帝の重臣や親戚は地方でかなりの力を持っていました。

言うならば、地方の親分的存在になっていたということですね。

 

その力を恐れた朝廷は、管理させていた土地を取り上げ、権力の削減を図りました。

 

そのような背景で起こった乱は鎮圧されましたが、統治体制の見直しが行われたのです。

 

どのように見直されたかと言うと、秦のような中央集権的な統治体制になりました。

つまり、諸侯に地方を任せるのではなく、皇帝が役人に命令して統治するという皇帝の権力が強くなったということです。

対外戦争で最大領域に 武帝

前漢の最大領域を達成したのは武帝という皇帝です。

武帝は名前からも想像できるように、武力を使って積極的に対外戦争を行った皇帝でしたよ。

しかし、武帝は一体どの国と対外戦争を行ったのでしょうか?

 

武帝が戦争を仕掛けたのは

  • 朝鮮半島
  • ベトナム(南越)
  • 匈奴(中国北方の異民族)

です。

 

武帝は朝鮮半島に遠征し、結果的に楽浪郡などの4つの群を作ることに成功しました。

また、南越(現在のベトナム)の遠征も成功します。

 

しかし、武帝の遠征で一番覚えておきたいのが匈奴討伐の遠征です。

匈奴(きょうど)というのは中国北方の異民族で、漢にとっては最大のライバルですよ。

 

実際に漢の初代皇帝となった劉邦も、冒頓単于(ぼくとつぜんう)率いる匈奴に敗北しています。

 

今度こそは匈奴を倒して、漢を匈奴の侵入から守りたい!

と思った武帝はある作戦を実施します。

 

その作戦というのは

中央アジアの大月氏という国と同盟を結び、匈奴をはさみうちにする

というものでした。

 

ルリアゲハ
戦いを行う上で一番厄介なのは、敵に挟まれることです。

もし漢が敵を挟み撃ちにできれば、戦いはかなり有利になりますよね。

 

そのために張騫(ちょうけん)という人物を大月氏に派遣します。

しかし、この頃の中国の人にとっては、中国のずっと西というのは未知の場所でした。

 

そんな中、張騫は苦労の末に大月氏に到着しますが、結局同盟を結ぶのは失敗してしまいます。

 

しかし、張騫は今まで謎だった中国の西の情報を漢に持ち帰りました

 

このときの情報が、武帝が李広利に命じた西のフェルガナの汗血馬(名馬)の獲得。

さらに、ローマ帝国と漢の交易にも繋がってますよ。

 

漢の領土は広がりましたが、数々の遠征により、漢は財政難に陥ってしまいました。

お金がない

また、武帝は内政にも力を入れましたよ。

例えば、儒学の官学化や収益源確保のために塩や鉄、酒を国の専売にしたりということですね。

 

儒学の官学化は董仲舒(とうちゅうじょ)

「目上の人へ敬意を払うことを説く儒学を官僚全員に学んでもらえば、皇帝中心のまとまりのある国になりますよ。」

と提案したことから行われます。

権力争い勃発 前漢の滅亡

しかし、武帝の死後には宮廷内で権力争いが起きてしまいます。

どんな争いだったのでしょうか?

 

それは宦官や外戚が国の実権を握ろうという争いでした。

 

ちなみに宦官というのは皇帝や皇后の日常の世話をする人で、外戚というのは皇后の親族です。

 

つまり、皇帝の身近にいた人々が、誰が国の実権を握るかで争っていたのです。

 

誰も争いを止められなかったことからも、皇帝の力は衰えていたのがわかりますね。

 

最終的には王莽という人物が帝位を奪うことに成功します。

すぐに滅んだ古臭い王朝 新

権力争いが耐えなかった武帝死後の前漢。

の前漢から帝位を奪ったのは王莽です。その結果、新しくという王朝ができました。

幸せな気分

しかし、

アンバー
なんで王朝の名前が変わったの?

と思う人もいるでしょう。

 

皇帝となる一族が変わったので、王朝の名前も漢から新に変わったのです。

 

王莽はもともと皇后の親戚(外戚)で

今の政治体制はおかしい!やっぱり理想は周の時代のような政治だ!

と考えていました。

 

ルリアゲハ
周というのは中国の王朝の中でもかなり長く続いた王朝です。

だから、秦のような国よりも周のような国を作りたいというのはなんとなくわかりますね。

 

そして、実際に周の時代を理想とした改革を次々と行っていきます。

 

しかし、ある重大な問題があったのです。

 

一体何かというと、周の政治スタイルが古すぎたという問題ですよ。

古臭い王朝

周というのは漢の2つ前の王朝ですが、実は周ができたのは1000年以上前だったのです。

 

普通に考えて、千年前の政治なんて時代が変わりすぎて、うまくいくはずないですよね。

まもなく、王莽の政治に不満を持った人々の赤眉の乱により新は滅んでしまいます。

 

赤眉の乱は乱の参加者がみんな赤い眉にしたことで有名ですよ。

なんで赤い眉にしたかというと、漢を表す赤を身につけることで漢の復興を願ったからですね。

再び宮廷内の争いで滅亡 後漢

赤眉の乱と同時期に一人の漢王朝の生き残りが立ち上がります。

その人物が後の光武帝となる劉秀ですよ。

 

最終的に劉秀は漢(後漢)を復活させ、光武帝として即位しました。

光武帝ってさっき出てきた前漢の武帝と名前が似ていますよね。

しかし、武帝と行った政策は真逆で、対外戦争ではなく内政を重視しました。

 

ただ、光武帝の死後、また宮廷内で争いが起きてしまうのですね。

 

その結果、どんどん国は衰退し、農民たちの間では宗教結社が流行します。願い

やっぱり、生活が苦しい時は人々は宗教に救いを求めるのですね。

最終的に、宗教結社中心の黄巾の乱が起き、大混乱となりました。

混乱の中、台頭したという国に皇帝の座を譲り、後漢は滅亡することになります。

 

ちなみに、というのは三国時代の国(魏・呉・蜀)の一つですね。

この後、三国志でも有名な三国時代が始まります。

まとめ

いかがでしたでしょうか。

今回は高校世界史で勉強する漢王朝について解説しました。

 

内容を簡単にまとめると以下のようになります。

まとめ

  • 漢王朝は秦と三国時代の間の王朝
  • 漢王朝は途中で一旦滅亡し、復活した(復活前 前漢 復活後 後漢
  • 漢の政治の特徴はほとんどが秦と同じだが、統治方法が秦を教訓にした郡国制
  • 文化は歴史書、製紙法、儒学の官学化などが有名
  • 劉邦は漢の初代皇帝で郡国制を採用した
  • しかし、呉楚七国の乱によって中央集権的な統治体制に変わった
  • 武帝漢の最大領域を実現した皇帝で、朝鮮半島やベトナム、匈奴討伐の遠征を行った
  • 漢から帝位を奪ってを立てたのは王莽
  • 漢を再び復活させたのは劉秀
  • 最後は黄巾の乱が起き、に帝位を譲る

今回の内容をマスターして、世界史の定期テストや模試で高得点を目指してみてくださいね。

最後まで読んでいただきありがとうございます。

 

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