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【世界史】フランク王国を高校生にわかりやすく徹底解説 

フランク王国アイキャッチ

皆さんこんにちはルリアゲハです。

 

世界史を勉強していると出てくるゲルマン人の国フランク王国。

 

アンバー
いろいろな人物が出てくるけど、正直カール大帝以外よくわからない…
ジェード
王朝が2つ出てきたけど、全体的にどんな流れだったっけ?わかりやすく教えて!

という人も多いでしょう。

 

確かにゲルマン人の大移動でたくさんの国を覚えた後に、フランク王国まで覚えるなんて大変ですよね。

しかし、大丈夫ですよ。

この記事を読むと

この記事で学べること

  • フランク王国はどんな国なのか
  • メロヴィング朝はどのように成立したのか
  • カール・マルテルが活躍したトゥール・ポワティエ間の戦い
  • カロリング朝への変化
  • ピピンの活躍
  • 偉大なカール大帝の活躍
  • フランク王国の分裂

をマスターできます。

ルリアゲハのプロフィール

フランク王国って何?

そもそも、フランク王国はどんな国だったのでしょうか?

 

フランク王国を一言で表すと

ゲルマン人が作った中では唯一長続きした国

ですよ。

ゲルマン人の大移動で西ヨーロッパにきたゲルマン人。

彼らは各地にたくさんの国を作りました。

 

ゲルマン人の大移動というのはフン人から逃げてきたゲルマン人が、西ヨーロッパに大規模移住した出来事のことですね。

 

ゲルマン人の大移動は西ローマ帝国を滅亡させた大きなきっかけでもあります。

西ローマ帝国の滅亡については

ローマ帝国のまとめ
参考ローマ帝国のまとめ(世界史の復習におすすめ)

続きを見る

でも触れていますよ。

 

彼らはいくつもの国を作りましたが、その多くは短命でした。

しかし、フランク王国だけは長く続き、後のヨーロッパにも大きな影響を与えます。

 

アンバー
フランク王国は具体的にはどんな影響を与えたのだろう?

と思ったかもしれません。

フランク王国はフランス、ドイツ、イタリアの成立に大きな影響を与えましたよ

 

どういうことかというと、ランク王国の領土は現在のフランスのあたりにありました。

地図で見てみると、こんな感じですよ。

フランク王国の地図

そして、最盛期(カール大帝の治世)にはフランスだけでなく、現在のドイツ、イタリアにも及ぶ領土を獲得します。

 

最終的には、フランク王国は3つに分裂しましたが、それぞれの国がフランス、ドイツ、イタリアという風になっていきました。

 

フランク王国はメロヴィング朝とカロリング朝という王朝が出てきますよ。

最初に成立するのがメロヴィング朝で、あとに成立するのがカロリング朝です。

 

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クローヴィスのメロヴィング朝

フランク王国を建国したのはクローヴィスという人物です。

彼はフランク王国の王となり、メロヴィング朝を開きました。

ルリアゲハ
メロヴィング家出身のクローヴィスが建てた王朝なので、この王朝のことをメロヴィング朝といいますよ。

 

王となって周辺に住む民族を従えたクローヴィスですが、ここである問題が現れます。

 

ある問題とは一体何なんでしょうか?

当時フランク王国周辺には、彼と同じゲルマン人もいれば、ローマ人もいました。

 

その問題というのは宗教の違い、もっというとキリスト教の宗派の違いですよ。

中世ヨーロッパの中心キリスト教

全く異なるバックグラウンドを持ったゲルマン人とローマ人は、同じキリスト教でも違う宗派を信仰していました。

 

具体的には

ゲルマン人=アリウス派

ローマ人=アタナシウス派

という違いですね。

 

ジェード
アタナシウス派とアリウス派ってなんか習った気がするけど、何が違うのだったっけ?

という人も結構いるかもしれません。

 

どちらもキリスト教の宗派のことで、アタナシウス派は正統な教え、アリウス派は異端な教えとされていました。

ちなみに、アタナシウス派が正統と決まったのはニケーア公会議ですよ。

公会議というのはキリスト教全体の方針を決めたりする公式の会議です。

 

やっぱりアタナシウス派を信仰するローマ人にとって、異端なアリウス派のゲルマン人の支配というのは

正統なアタナシウス派を信仰する私達が、なんでアリウス派なんかの支配を受けるんだ!

という風に抵抗ありますよね。

 

そのように思うローマ人に配慮して行ったクローヴィスの行動も見事でした。

優しい心

フランク王国の王クローヴィスはアリウス派を信仰していました。

 

しかし、クローヴィスはカトリックに改宗したのです。

こうすることで、ローマ人も味方につけ、長く国を繁栄させました。

 

ただ、王自体の力は時が経つにつれて弱体化していきます。

トゥール・ポワティエ間の戦い

メロヴィング朝がどんどん弱体化していく中、ある人物が頭角を現します。

 

その人は宮宰カール・マルテルですよ。

宮宰というのは行政を行う上での一番偉い人です。

つまり、王の側近ですね。

 

カール・マルテルは宮宰として仕事をしていくうちに、王様よりも力を持つようになります。

 

彼が大きく力を持つようになったきっかけがトゥール・ポワティエ間の戦いですよ。

 

この当時、イスラーム勢力がフランク王国に迫ってきていました。

フランク王国はトゥールとポワティエの中間地点で戦いを繰り広げます。

トゥール・ポワティエ間の戦い

ちなみに、トゥールとポワティエというのはフランク王国の都市の名前です。

トゥールとポワティエの間にある場所で戦いが始まったので、トゥール・ポワティエ”間”の戦いですよ。

 

また、この時フランク王国と対立したイスラーム勢力はウマイヤ朝ですよ。

 

戦いの結果、フランク王国軍はイスラーム軍を追い払うことに成功します。

実はこのフランク王国軍を主導したのがあのカール・マルテルでした。

ルリアゲハ
フランク王国から見ると、カール・マルテルはピンチの国を救った英雄ですよね。

 

そのようにして、カール・マルテルの権力は王を超えるようになり、その権力は彼の子どもにも受け継がれます。

カロリング朝成立

フランク王国の王を超える権力を手にしたカール・マルテル

彼はその気になれば王座を乗っ取ることもできました

 

しかし、カール・マルテルはそれをしませんでしたよ。

ルリアゲハ
やっぱり王位を力ずくで奪うとなると周囲からの反感を買うリスクが高いですよね。

 

ただ、彼の子のピピンは王位を奪うことを実行します

 

その結果、新しい王朝が誕生し、フランク王国はローマ教皇からお墨付きをもらう偉大な国となりました。

 

しかし、なぜピピンは王位を横取りしたのに国を繁栄させることに成功したのでしょうか?

その理由をこれから見ていきましょう。

ピピン

ピピンはトゥール・ポワティエ間の戦いを主導したカール・マルテルの子どもです。

 

絶大な権力を受け継いでいた彼はメロヴィング朝を倒し、新しくカロリング朝を開くことに成功しました。

その後、フランク王国の王になります

実はこの時ピピンは利害の一致からローマ教皇と繋がりを持っていましたよ

ピピンとローマ教皇の利害の一致というのはどういうことなのでしょうか?

 

この当時のピピンもローマ教皇もそれぞれ悩みがありました。

具体的には

ピピン「人々から支持を集めるためにも有力者からのお墨付きが欲しい」

ローマ教皇「もっと影響力を高めるために政治的な後ろ盾が欲しい」

といった感じですよ。

 

ピピンのクーデター成功にはみんなからの支持が必要です。ピピンから見てローマ教皇は影響力を持った有力者という意味ではピッタリですよね。

 

一方のローマ教皇にとっても、長く続くフランク王国の未来の王というのは政治的な後ろ盾としては最適です。

 

つまり、どちらにとっても、お互いが協力することは得があるということですね。

 

ここで

ジェード
なぜローマ教皇はそんなに政治的な協力者を求めたのだろう?

と思ったかもしれません。

 

実はローマ教皇には協力者を求めるに至った差し迫った危機が訪れていました。

 

その危機というのはギリシャ正教との喧嘩別れからの政治的孤立ですよ。

自由を失って絶望する人

ローマ教皇はキリスト教の主要な宗派の一つ カトリックのリーダーですよね。

 

しかし、カトリックとギリシャ正教は同じキリスト教なのに、教義の解釈の違いから対立します。

最終的に両者は

お前とは馬が合わないからもう絶交だ!

という関係になりました。

 

このカトリックとギリシャ正教の対立については

という記事で詳しく解説しています。

 

その結果、カトリック教会と教皇は頼れる味方を失いました。

そんな中で、活動の範囲を広げていくためにも、新しい政治的な協力者が必要になります。

 

フランク王国と距離を縮めるためにも、ローマ教皇はピピンをフランク王国の王として承認します。

 

そういった背景があり、ローマ教皇から新しいフランク王国の王として承認を受けていました。

キリスト教社会であるヨーロッパではローマ教皇の影響力は絶大です。

 

ということは、フランク王国の人々も

人々「あのローマ教皇からも認められている王様なら安心だ」

という風に考えますね。

 

事前にローマ教皇からの承認を得たことで、穏健に王朝交代が行われました。

 

王となったピピンはまずランゴバルト王国という国を攻め、ラヴェンナ地方という土地を手に入れました。

ランゴバルド王国というのは現在のイタリアにあった国ですよ。

 

その後、新しく手に入れたラヴェンナ地方をお礼として教皇にプレゼントしました

プレゼント

お礼というのは教皇がピピンの王位継承を認めてくれたことに対するお礼ですね。

このことをピピンの寄進といいますよ。

 

ルリアゲハ
プレゼントをお互いに贈り合うなんてピピンとローマ皇帝はすごく仲良しですよね。

 

そんなピピンとローマ皇帝の中の良い関係はピピンの子カール大帝の代にも受け継がれますよ。

偉大な王 カール大帝

偉大な皇帝カール大帝

ピピンの子カール大帝はピピンの後を継いで、フランク王国の王となりました。

 

ちなみに、カール大帝を英語でいうとチャールズ ザ グレート(Charles the Great)、

フランス語でいうと

シャルルマーニュ(Charlemagne)

ですよ。

日本語のカール大帝も英語のチャールズ ザ グレートも偉大そうな名前ですよね。

 

その名前の通りカール大帝はフランク王国を大きく繁栄させた偉大な”皇帝”として名を残しています。

 

実際に、彼はフランク王国の勢力範囲を西ヨーロッパのほぼ全域に広げ、その統治にも成功しました。

具体的にはどんな風にそれを実現したのでしょうか。

そのためにカール大帝の行ったことは主に3つです。

 

まず1つ目は、他国への戦争ですよ。

カール大帝はアヴァール人やランゴバルド王国ザクセン人、イスラーム勢力を攻撃し、次々と勝利しました。

その結果、下の地図のような広大な領土を獲得します。

TEN - File:Mediterranean Basin and Near East before 1000 AD topographic map.jpg(Natural Earth), CC 表示-継承 4.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=63766545による

 

次に行ったのは、効果的な統治方法の実施です。

どんなに広大な土地を手に入れても、管理できないと何の意味がありません。畑だって農作業を怠ると、農作物は取れませんよね。

 

しかし、広大な土地を一人で管理するのは大変です。

カール大帝は一体どのようにして領土を統治したのでしょうか?

 

 

彼が取った統治方法は領土を分割して、分割した一つ一つを部下に管理させる方法です。

分割した領土のことを、土地を管理させる部下のことを伯(はく)と言いますよ。

といってもこれだけではイメージしにくいですよね。

 

ルリアゲハ
日本で例えると、日本の領土を47の都道府県に分けて、それぞれを知事に管理を任せる感じですよ。

結果、カール大帝の統治方法は成功しました

 

最後に行ったのは、ローマ教皇との関係をより密にすることです。

和解

カロリング朝はピピンの頃からローマ教皇とは親密でしたよね。

そして、カール大帝の治世になると、より親密になります。

 

ここまでで

アンバー
カール大帝の凄さは分かった。けど、なんでカール大帝は王じゃなく”皇帝”として名を残したの?

フランク”王国”なんだから王じゃないの?

という風に疑問を持ったかもしれません。

 

簡単に言うと、カール大帝が王ではなく、皇帝なのは、ローマ皇帝の位を授かったからですよ。

 

実はカール大帝がローマ皇帝の座を授かったカールの戴冠には、

カール大帝とローマ教皇の関係性が大きく影響しています。

というのも、カール大帝にローマ皇帝の位を与えたのはローマ教皇ですよ

 

カールがローマ帝国の位を授かったのは800年のクリスマスの日です。

カールの戴冠

この日、カールに冠を被せたローマ教皇は

「ここに西ローマ帝国は復活した」

と宣言しました。なんと、かつて滅んだあの偉大な西ローマ帝国が復活したということです。

しかも、ただ復活しただけではありません。

ローマに元々あった文化やキリスト教だけでなく、ゲルマン人の要素も融合した国として生まれ変わりました。

その新しく生まれ変わった西ヨーロッパのことを西ヨーロッパ中世世界と言いますよ。

 

つまり、カール大帝は

「バラバラになった西ヨーロッパを再統一し、さらに新しい歴史も生み出した人物」

として西ヨーロッパ全体の歴史に名を残すことになります。

 

ルリアゲハ
本当にカール大帝という名にふさわしい活躍ですよね。

 

また、今まで紹介した以外にも後世に残した影響がありますよ。

 

その例として、ヨーロッパ諸国の王や皇帝の名前が挙げられます。

 

カール大帝の後の時代では

カール○世

チャールズ○世

シャルル○世

カルロス○世

といった風にカール大帝にちなんだ名前が多く登場します。

ルリアゲハ
スペインの繁栄に大きく貢献した神聖ローマ皇帝兼スペイン国王のカルロス1世(カール5世)や、ジャンヌ・ダルクに支援されたフランス国王シャルル7世などがそうですよね。

 

スペイン国王のカルロス1世(カール5世)の活躍については

(世界史) 今日から分かるスペイン最盛期

という記事で詳しく解説しています。

 

王というのは代々受け継がれてきた国や国民の運命を大きく左右する役職です。

 

そんな王の名前に「あのカール大帝のように立派な王になってほしい」

ということから選ばれるというのはすごいことですよ。

 

これらのことからも、カール大帝の偉大さが読み取れますね。

 

フランク王国分裂

2つの条約で3つに分裂

カール大帝の死後、彼が獲得した領土をどう管理するかという問題が発生します

 

今まではカール大帝”個人”の偉大さによって、征服地も含めた広大なフランク王国の領土を管理していました。

決してフランク王国や王家自体に広大な領土を治める力があったわけではありません。

 

つまり、カール大帝が偉大すぎて誰も反乱を起こしたりできないという感じです。

 

しかし、カール大帝の死後は彼個人の力で国をまとめられなくなりました。

 

やがて、カール大帝の孫の代で誰がどこの領土を管理するかで揉めます

カール大帝の三人の孫がフランク王国の領土を受け継ぎ、誰がどこの領土を治めるかで争うこととなったのです。

最終的には三人の孫が条約を結び、フランク王国を3つに分けることになりました

 

その結果、かつてフランク王国だった場所には

  • 西フランク王国(後のフランス)
  • 東フランク王国(後のドイツ)
  • イタリア王国(後のイタリア)

の3つの国が成立します。

 

これらの国はフランス、ドイツ、イタリアの元となっていきますよ。

ルリアゲハ
今までよくわからない国ばっかりでしたが、ようやくみんなもよく知っていて、今もある国の名前が出てきましたね。

 

ちなみに、少し複雑なのですが、彼らが結んだ領土を分割する条約はヴェルダン条約とメルセン条約の二つがありますよ。

ヴェルダン条約(843年)が一回目に、メルセン条約(870年)が二回目に結ばれた条約です。

 

新しくメルセン条約条約が結ばれたときの変更点としては

  • 中部フランク王国→イタリア王国に変更
  • それぞれの国の領土が少し変更

の二つですよ。

まあ大枠は同じで、大きな変更点はないですけどね。

 

3人の孫はそれぞれの国の王となったのですが、200年も立たないうちに全ての王朝は断絶してしまいます。

 

そう、どの国にもカロリング家の血を引く後継者がいなくなったのです。

 

つまり、どの国も新しい統治者を探す必要が生じたということですね。

王家断絶後はどうなった?

それぞれの国はカロリング家断絶後、どのような支配体制に変わったのでしょうか?

 

まずは真っ先に王家が断絶した東フランク王国から見ていきましょう。

王家が断絶した後、諸侯たちが選挙を行って新しい王を選ぶことになりました。

 

選挙の結果、王に選ばれたのはオットー1世です。元々彼は東フランク王国の諸侯の一人でした。

オットー1世は即位後、異民族のマジャール人スラブ人の侵攻を退け、北イタリアを支配下に置くという大活躍をします。

 

その結果、ローマ教皇から新しいローマ皇帝として位を授かりました。なんと、カール大帝に代わるローマ皇帝と認められたのです。

すごいですよね。

 

その結果、東フランク王国は神聖ローマ帝国(現在のドイツの元)と改称し、長く続く国となりました。

ただ、王の力はあまり強くなく、国としてはあまりまとまりはありませんでした

バラバラになる

 

続いては、フランスの母体である西フランク王国について見ていきましょう。

 

同じく王がいなくなった後、パリ周辺を支配していたユーグ・カペーという人物が新しい王となります。ユーグ・カペーは元々パリ伯でした。

彼が王に即位したことにより、新しくカペー朝が誕生します。

 

ちなみに、この後の全てのフランスの王様はユーグ・カペーの血を引く者がなりますよ。

 

しかし、カペー朝はあまり強くなく、他の諸侯の方がより力を持っている場合も多くありました。

 

最後にイタリアについて見ていきましょう。

イタリアは王家が断絶した後、いくつもの小国に分裂してしまいます

 

今までとは違うパターンですね。

 

なぜイタリアは権力が弱いが、一つの国として成立しているという状態にならなかったのでしょうか?

 

その理由として度重なる他国からの介入が挙げられますよ。

 

イタリアは

  • 神聖ローマ帝国からの介入
  • イスラームによる侵略

などによって、一人の王がイタリアを統一し、国を安定させる余裕がありませんでした。

特に神聖ローマ帝国は執拗にイタリアに介入してきます。

 

こんな状況では内政を整えるどころではないですよね。

 

そんなうちに、ジェノヴァやヴェネツィアといった有力な都市が力を持ち、イタリアは分裂状態になります。

それ以降、タリアは小国や諸都市が分立して、それぞれで統治するというスタイルが長く続きますよ。

まとめ

いかがでしたででしょうか。今回は世界史で習うフランク王国についてわかりやすく解説しました。

今回の内容を簡単にまとめると

今回のまとめ

  • フランク王国は現在のフランスにあった珍しく長く続いたゲルマン人の国
  • ゲルマン人のクローヴィスが立てた国(王朝はメロヴィング朝
  • クローヴィスは宗派の異なるローマ人に配慮し、カトリックに改宗
  • 王権が弱まり、トゥール・ポワティエ間の戦いで活躍した宮宰カール・マルテルが実権を握る
  • ピピンはローマ教皇に王として認められ、メロヴィング朝を廃して王となる(カロリング朝成立)
  • カール大帝フランク王国最大領土を実現し、ローマ教皇からローマ帝国の位を授かる=西ローマ帝国の復活
  • カール大帝死後、フランク王国を3つの国に分割する

という感じになります。

 

フランク王国の覚えることはそれなりに多いですが、この後のヨーロッパ世界に大きな影響をもたらした国ですよ。

 

ということは、今ちゃんと覚えておくと、この後の中世ヨーロッパ史を理解するのが楽になりますね。

 

今回の内容をマスターして中世ヨーロッパを得意な単元にしましょう。

最後まで読んでいただきありがとうございました。

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