皆さんこんにちは、ルリアゲハです。
世界史を学習していると出てくるフランス革命。ぶっちゃけ複雑で分かりにくいですよね。おそらくあなたは


と悩んでいることでしょう。そんなあなたも大丈夫です。
この記事を読めば
この記事で分かること
- フランス革命が何なのか
- フランス革命がどんな影響を与えたか
- フランス革命前のフランスの問題点
- バスティーユ牢獄襲撃~ブリュメール18日のクーデタまでの詳細な内容
が理解できますよ。
目次
そもそもフランス革命って何?
そもそもフランス革命というのはどんな出来事で歴史的にどんな意義があったのでしょうか?
フランス革命は1789年から1799年にかけてフランスで起こった市民革命です。約十年間続いた革命ということですよね。
ちなみに市民革命というのは
中世的な封建主義体制を市民たちが180度変える流れのこと
ですよ。中世的な封建主義体制というのは王や貴族などの特権階級が絶大な権力を持っていて、他の人たちは支配されているという感じですよ。だから、革命というのは人々が立ち上がって特権階級から開放を目指す動きのことです。
フランス革命とほぼ同時期に起こった市民革命として
- イギリス革命
- アメリカ独立革命
が挙げられます。これらの市民革命が起こった順番は
イギリス革命⇒アメリカ独立革命⇒フランス革命
です。
起こった順番も覚えておきましょう。
これらのことを踏まえてフランス革命の歴史的な意義は何なのでしょうか?
フランス革命の歴史的な意義は
フランスが絶対王政から王のいない近代的な国になった
ということです。
また、フランスの周辺諸国にも大きな影響を与えました。普通に考えて、今まで絶対王政だった国が王のいない共和制に代わるって大事件ですよね。実際に周辺諸国も動揺します。
フランス革命によって周辺諸国はどういった影響を受けたかも絶対に押さえておくべきポイントですよ。
さらに、フランスにとってもフランス革命は超重要な出来事です。
例えば、フランスの国旗や国歌はフランス革命が元となっています。
とにかくフランス革命はフランスの歴史を語る上で絶対に外せない存在というますね。
しかし、フランス革命は市民たちが一致団結して行われたとは言えません。別々の理想を掲げたグループが革命の主導権を争っていたからです。
なぜなら、フランスは貧しい人もいれば金持ちもいました。生活のレベルが大きく異なる人が一つにまとまってフランスを変えようとするのは難しいですよね。だって、豊かな人は
「別に今のままでよくない?」
と考え、
貧しい人は
「こんな苦しい暮らしは嫌だ!一日でも早く抜け出したい」
と考えていました。絶対お互いの理想とするフランスは違いますよね。
なので、革命の中心的なグループはコロコロ変わります。
ここがフランス革命の複雑なポイントなんですよね。フランス革命では
ココがポイント
三部会⇒国民議会⇒立法議会⇒国民公会⇒総裁政府
の順で変わっていきますよ。
そして、フランス革命時の国王はルイ16世、王妃はマリ=アントワネットです。
このパートのまとめ
- フランス革命は1789年から1799年にかけてフランスで起こった市民革命
- 革命の結果、フランスが絶対王政から王のいない国になり、周辺諸国にも大きな影響を与えた
- フランスには色んな身分の人がいてなかなか一致団結できない⇒革命の中心グループはコロコロ変わる
- フランス革命時の議会は三部会⇒国民議会⇒立法議会⇒国民公会⇒総裁政府
- フランス革命の王はルイ16世、王妃はマリ=アントワネット
フランス革命が起こった背景
しかし、なぜフランス革命は起こったのでしょうか。フランス革命が起こった背景には
- フランス国内の旧制度
- フランスの財政難
などが挙げられます。一つ一つ見ていきましょう。
フランス国内の旧制度
一つ目の要因はフランス国内の古臭い社会制度です。ちなみにフランス国内の旧制度をフランス語でアンシャン・レジームと言いますよ。

と17,18世紀のヨーロッパの文化を習った人なら思いますよね。

しかし、フランスは文化的には近代的でしたが、政治や社会体制では古くて封建的だったのです。
フランス国内の旧制度として代表的なのは第一身分、第二身分、第三身分ですね。
きっと聞いたことのある人もいるかもしれません。
第一身分が聖職者、第二身分が貴族、第三身分が平民です。
第一身分と第二身分がフランスの人口の3%で、残りの97%は第三身分が占めていました。そして、第三身分にも大商人や大地主のような金持ちもいればそこそこ豊かな人たち、さらには貧しい農民もいたのです。
ただ、重要なのは第一身分と第二身分は免税特権を持った特権階級ということですよ。つまり、彼らは税を払わなくてもよかったのです。
じゃあどうやって税を集めていたのでしょうか?
実は税は人口の大半を占める第三身分だけから集めていました。
しかし、ここで一つの問題が起きます。なんと、フランスの財政が悪化しすぎて、どんなに頑張って第三身分から税を集めても足りなくなってしまったのです。
特に第三身分のなかでも貧しい人々はかなり苦しい生活をしていました。さっき言った税だけでなく領主へ土地代も払っていたのです。彼らは自分の土地を持っておらず、土地を借りて農業をしていました。
まさに

という状況ですね。
なので、財政難の中、どうやって税を集めようか
となって色々もめます。
フランスの財政難
二つ目の理由はフランスの財政難です。フランス革命前のフランスは
- 度重なるイギリスとの戦争でお金を使いすぎた
- イギリスから安い製品が入ってきて産業が発展しない
- 宮廷での浪費
などが原因で財政難に陥っていました。ルイ16世はテュルゴーやネッケルに財政改革をしてもらおうとしました。
しかし、
「もっと税を集めたいけど、これ以上第三身分からは集められない。でも、第一身分と第二身分から集めようとすると大反発される」
という状況に陥ります。そこで、久々に三部会を招集して、それぞれの身分の意見を聞こうとしました。
三部会は王が聖職者、貴族、市民の代表を集めて話し合う会議ですよ。しかし、ルイ13世の頃以降行われていませんでした。
このパートのまとめ
- フランス革命前はフランス国内の旧制度と財政難という問題があった
- フランス国内の旧制度というのは特権階級の第一身分と第二身分、税を負担する第三身分があるという制度
- フランスの財政難で「もっと税を集めたいけど、これ以上第三身分からは集められない。でも、第一身分と第二身分から集めようとすると大反発される」という状況に陥った
- そうして、聖職者、貴族、市民を三部会に招集し、解決しようとした
革命前夜 三部会⇒国民議会結成
そうして、三部会が招集されて話し合いますが、一向に決まりません。何としても税を負担したくない第一身分、第二身分とこれ以上税を負担したくない第三身分とで対立したのです。
なんとか結論を出すため、「第一身分と第二身分にも課税することに賛成かどうか」
を身分ごとに投票することにしました。要するに、第一身分と第二身分と第三身分で多数決で決めたということですね。なんとなく結果は分かると思いますが、
第一身分 反対
第二身分 反対
第三身分 賛成
です。これは第三身分には勝ち目がないですよね。
そこで、第三身分は三部会を抜け出し、自分たちのための議会 国民議会を作りました。会議室から出た彼らはテニスコートに集まって会議を行いました。
そして、テニスコートの誓いを立てます。誓いの内容は
「私達は憲法を制定するまでは何があっても解散しない」
という内容ですよ。
しかし、

と疑問に思ったかもしれません。結論から言うと、国民議会は国王から認められていたが、憲法を作ろうとすると、弾圧されたという感じです。
第一身分、第二身分にも

という風に国民議会に賛同する人たちもいました。それもあって国王は国民議会を認めます。
しかし、国民議会が憲法を作り始めたと聞くと
「自分たちの統治が憲法によって脅かされるのではないだろうか」
と考えた国王や一部の貴族が弾圧しました。でも、最終的に憲法は作られるのですよね。
バスティーユ牢獄襲撃
フランス革命はバスティーユ牢獄襲撃から始まります。
しかし、なぜ革命を起こそうとした人々はまずバスティーユ牢獄を襲撃したのでしょうか?
それはバスティーユ牢獄は圧政の象徴だったからです。
また、
「バスティーユ牢獄には大量の武器があって、政治犯がいるだろう」
と国民議会は考えたからです。でも、実際には思ったよりも武器も置いてなかったし、政治犯もいませんでした。
しかし、バスティーユ牢獄襲撃のあと農民反乱が各地で起こります。
どんな反乱かというと領主に対する反乱ですね。この頃の農民たちは
「市民たちがバスティーユ牢獄を襲撃したらしいぜ。俺たちも暴れて自由を手に入れよう!」という風に不自由な待遇の改善を求めたです。
当時農民は領主に土地代を払ったり、教会に税を払ったりして領主から搾取される立場でした。
中世ヨーロッパの農奴制の影響が色濃く
残っていたのです。中世ヨーロッパの農奴の生活は
- 引っ越しできない
- 地代を納めて、領主の土地でも働かなくてはならない
など色々不自由でしたよね。
国民議会はフランス各地で農民たちが自由を求めて領主を襲っているという状況を知って、何とかして暴動を抑えつつ、農民たちを味方に付けようとしました。
やっぱりフランスを変えるためには、貧しい農民たちの協力も必要だった
ということですね。
しかし、農民たちが好き勝手に暴れると困るので、彼らが納得する状況を用意しました。
そして、暴れる農民たちを納得させるために、彼らが求めていた封建的特権の廃止を行います。
具体的な例を挙げると、
- 地代の廃止
- 十分の一の税(教会に払う税)を廃止
などですよ。地代を廃止したことで、農民たちは小作農⇒自作農へと変化していきました。
つまり、今まで人から土地を借りて農業をしていた農民たちが自分の土地を持って農業ができるようになったということですね。
こうして、農民たちの不満は解決されて、革命のために一致団結していきます。
革命の方向性を提示 人権宣言
さらに人々の結束を高めるために、国民議会は
「革命を通じてフランスをこんな国にするぞ」
というをビジョンを提示しました。それが人権宣言です。一体どんな内容なのでしょうか?
人権宣言の内容を簡単にまとめると
私たちは生まれながらにみんな自由で平等なんだよ。もちろん言論の自由もあるし、自分たちの財産は誰にも奪われないものなんだ
という風な感じです。
つまり、私たちが理想とするフランスは自由で平等な国であるという宣言ですね。
しかし、現実では、王や聖職者、貴族ばかりが優遇され、みんなが自由で平等な国ではありません。
だから、人権宣言というのは本来誰もに保証されるべき自由と平等のためにみんなで戦うために出されました。
国王一家を連行 ヴェルサイユ行進
そんな中、パリの市民たちによって国王一家がヴェルサイユからパリに連行されるという事件が起こります。この事件がヴェルサイユ行進ですよ。

そもそもなぜ、ヴェルサイユ行進は起こったのでしょうか?
実は、この頃のフランスは凶作でパンの価格が高騰していました。それによってお金をあまり持っていない人はパンを買うのも大変になります。
そんな市民たちの暮らしが苦しくなる一方、国王一家はヴェルサイユで何事もなかったかのように暮らしていました。ヴェルサイユはパリから20kmほど離れた町で、ヴェルサイユ宮殿がある場所ですね。
市民たちは国王たちがパンに困らずにパリから離れたヴェルサイユ宮殿で暮らしていることにいら立ちを覚えます。
そこで、市民はどうしたかというとパリからヴェルサイユまで隊列を組んで徒歩で行進しました。そう、徒歩です。ちなみに、隊列の先頭には女性たちがいたそうですよ。ヴェルサイユ宮殿に着いた市民たちはこんな風に言って国王一家を連行します。

という感じで国王一家をパリへ連行しました。
ヴァレンヌ逃亡事件
フランス革命の最中、フランス国王ルイ16世の立場を悪くする事件が起こります。その事件がヴァレンヌ逃亡事件です。
事件の概要を簡単に説明すると、
フランス国王ルイ16世と王妃マリ=アントワネットが変装してオーストリア領へ逃亡しようとしたが、途中の町 ヴァレンヌで素性がばれ、逮捕された
という事件です。オーストリアというのはマリ=アントワネットの祖国です。というのもマリ=アントワネットはあのマリア=テレジアの娘だからですよ。
国王一家はフランスの北の方にあるオーストリア領を目指して逃亡しようとし、途中のヴァレンヌという村で捕まりました。でも、逃亡成功までもうちょっとだったのですね。
ヴァレンヌ逃亡事件の結果、ルイ16世は国民に失望されます。だって王がフランスを見捨てて逃げようとしたのですからね。
つまり、
「自由で平等なフランスには王は必要ないんじゃないか?」
という声が一気に強くなったということですね。
憲法制定 そして国民議会の解散
ついにフランス初の憲法が制定されます。このフランス初の憲法を1791年憲法と言いますよ。
憲法の内容を簡単にまとめると
- 前文に人権宣言
- 三権分立という思想を取り入れた
- 財産による制限選挙
です。人権宣言はさっき出てきましたよね。三権分立というのは立法と行政と司法を別々の組織に分散して受け持つ仕組みですよ。現在の日本を含めて多くの国で採用されている仕組みです。
しかし、財産による制限選挙というのはどういうことかと疑問に思ったかもしれません。
簡単に説明すると選挙はお金をたくさん持っている人しか参加できないようにしたということですよ。
選挙は金持ちしか参加できないとした憲法なので、1791年憲法のことをブルジョワ憲法とも言います。ちなみにブルジョワ憲法というのは金持ち憲法という意味ですよ。
そして、重要なのが国民議会が憲法制定後解散したということですよ。なぜならテニスコートの誓いを果たしたからです。
国民議会を作った時に出したテニスコートの誓いは
「私たちは憲法制定まで何があっても解散しない」
というものでしたよね。そして、実際に憲法は制定されました。
なので、国民議会は解散し、新しく立法議会ができます。
このパートのまとめ
- 聖職者、貴族、市民が三部会で話し合ったが、話がまとまらなかった→第三身分の市民たちは三部会を抜けて国民議会結成
- 国民議会は憲法を作るまで解散しない(テニスコートの誓い)と誓った
- 市民たちは自由を求めてバスティーユ牢獄襲撃をする(フランス革命の始まり)→農民の反乱が多発→反乱を抑えるために地代の廃止、十分の一の税の廃止を行った
- 一致団結して自由で平等な国を作るために人権宣言が出される
- ヴェルサイユ行進、ヴァレンヌ逃亡事件によって王の力は弱体化
- 1791年憲法(ブルジョワ憲法)が制定され、国民議会は解散
立法議会と革命戦争
ジロンド派中心の立法議会
国民議会が解散した後、立法議会ができました。国民議会の時に制定された1791年憲法に則って財産を多く持つ人たちが議員を選びます。1791年憲法はブルジョア憲法とも呼ばれ、お金持ちしか選挙に参加できない憲法でしたよね。
なので、立法議会にはお金持ちに支持者が多い
- フイヤン派 立憲主義派
- ジロンド派 共和主義派(穏健派)
の議員が多く集まります。ただ、フイヤン派とジロンド派の主張は真逆だったので、争いが起こりました。
フイヤン派は

ジロンド派は
フランスに王は必要ない!
という風に主張します。本当に真逆ですよね。
最終的にはフランスに王は不要と唱えたジロンド派が立法議会の中心となりました。
周辺諸国との戦争⇒義勇軍が立ち上がる
王は不要と考えるジロンド派が革命の中心となると、まずオーストリアに宣戦布告しました。
オーストリアは王がいる王政の国ですよね。
そういう理由もあって、オーストリアはこれまでも
「フランス革命が成功してしまったら、自国でも革命が起こって自分たちの立場が無くなるかもしれない…」
と危機感を感じて、フランス革命を阻止するために色々とやっていました。
そして、フランスに宣戦布告されたオーストリアは同じく革命を阻止しようとするプロイセンを誘って、フランスと戦争をします。
そうして、フランス対オーストリア・プロイセンの戦争が始まるのですが、フランスはオーストリア・プロイセンの正規軍に苦戦してしまいました。
ピンチに陥ったフランスですが、各地から義勇軍がパリに集結し、なんとかして大逆転を目指そうとします。
市民たちが武器を持って集まった義勇軍ですが、主に参加したのはサン=キュロットという貧しい農民でした。
サン=キュロットというのはフランス語でキュロットがないという意味ですが、キュロットというのは何なのでしょうか?
キュロットというのは丈の短いズボンのことで、お金持ちがはくズボンでした。
当然貧しい農民はキュロットなんて持っていないので、サン=キュロットは貧しい農民を表していますよ。
後で紹介するフランスの王権停止後
義勇軍はヴァルミーの戦いで初めてオーストリア・プロイセン軍に勝利します。
ちょっと時系列がごちゃ混ぜになりましたが、まとめると
義勇兵集結⇒王権停止⇒ヴァルミーの戦い勝利
です。
ついに王権停止
戦争に勝つために立ち上がった義勇軍は、対外戦争と同時進行で王権停止を試みます。
まず義勇兵はパリのテュイルリー宮殿を襲撃しました。その後、国王一家を塔に幽閉し、王権停止に成功します。この事件を8月10日事件と言いますよ。
立法議会は
「ついにフランスの王様は力を失いましたよ!これからフランスは共和制の国です!」
と宣言しました。王権停止後に成立した共和制を第一共和政と呼びます。
そして、第一共和政が達成された後、立法議会は解散しました。
このパートのまとめ
- 立法議会にはフィアン派とジロンド派の議員が集まる→争いの結果、ジロンド派が議会の中心に
- 立法議会は王政の国オーストリアに宣戦布告する→フランス対オーストリア+プロイセンの戦争が始まる
- フランスはサン=キュロット(貧しい農民)たちの義勇軍で対抗
- 戦争と同時進行で義勇軍は8月10日事件で王権停止に成功→第一共和政
- 義勇軍はヴァルミーの戦いにてオーストリア・プロイセン軍に初勝利
- 第一共和制になった後、立法議会は解散
国民公会とルイ16世の処刑
王権停止後 立法議会は解散し、新しく国民公会が成立します。今回の国民公会では男子普通選挙が実施されたのでお金を持っている人も貧しい人も選挙に参加しました。なので、フランスの人口の大半を占める第三身分が支持する
- ジロンド派 共和主義派 (穏健派)
- 山岳派(ジャコバン派) 共和主義派 (急進派)
が国民公会の中心となります。どちらも「フランスに王なんていらない」と考える人たちですよ。
王の処刑⇒フランス孤立
王なんていらないと考える国民公会は王を公開処刑することにしました。そうして、フランス王ルイ16世と王妃マリ=アントワネットは民衆の前でギロチンにかけられます。
ついにフランスは完全に王がいなくなってめでたしめでたし
となればよかったのですが、実際にはもっとピンチになりました。一体何が起こったのでしょうか?
フランスに訪れた危機というのは、フランスの国際的な孤立でした。
なんでそうなったかと言うと、フランスの周辺諸国によって第一回対仏大同盟が結成されたからです。ちなみに、結成しようと最初に言ったのはイギリス首相ピットですよ。
「聞いたか?フランスの王様って民衆の革命で処刑されたらしいよ。俺たちの国にも革命が広まったらやばいなあ。革命の拡大を抑えるためにみんなでフランスを仲間外れにしよう!」
という感じで、王政である周辺諸国は第一回対仏大同盟を結成しました。
周辺諸国に仲間外れにされたフランスにとっては大ピンチですね。
ロベスピエールの恐怖政治
孤立したフランスのリーダーとなったのはジロンド派のロベスピエールです。ジロンド派というのは共和制を唱える中でも急進派のグループですよ。つまり、貧しい農民や市民向けの政策をたくさん行っていました。
例えば、
- 食料の価格高騰を防止 最高価格令
- 農奴制の廃止
などですね。貧しい人からすると食料品の値上げに上限が作られるのも、不自由な農奴制から完全に開放されるのもうれしいことでしょう。
そうした政策と引き換えに徴兵制で兵を集め、フランスの守りを固めます。
さらにロベスピエールはフランス国内のキリスト教の影響を弱めるために
- 革命暦の制定
- 理性の崇拝
などの改革も行いました。革命暦というのは西暦に代わってできたフランス独自の暦ですよ。イエスの誕生を基準にする西暦だとキリスト教の影響を受けてしまいますよね。
もう一つの理性の崇拝というのは、キリスト教を信仰する代わりに理性の崇拝行事をおこなうということです。
しかし、革命政府に反発する人や気に食わない人をみんな処刑するというロベスピエールに反発する人も増えます。
当時のフランスではどんな身分の人もロベスピエールに目を付けられて処刑されることをひどく恐れていました。
なので、ロベスピエールの行った政治を恐怖政治と言いますよ。
フランスを自由で平等な国にするためにみんなで戦ったはずなのに独裁者に怯えて暮らしている。
この状況を打破するために反ロベスピエール派は立ち上がります。
そして彼らはテルミドール9日のクーデタを起こしてロベスピエールを独裁者の座から引きずり下ろしました。
このパートのまとめ
- 立法議会解散後、ジロンド派と山岳派(ジャコバン派)中心の国民公会が成立
- 国民公会は幽閉されていたルイ16世とマリ=アントワネットを公開処刑した
- 王処刑後、イギリス首相ピットにより第一回対仏大同盟結成→フランスは国際社会から孤立
- ジャコバン派のロベスピエールがジロンド派を追い出して革命のリーダーに
- 貧しい人のために最高価格令や封建的特権の廃止をし、さらに、革命歴の制定、理性の崇拝を行う
- ロベスピエールは革命に反発する者などを次々と処刑→恐怖政治に
- 最終的に反ロベスピエール派によるテルミドール9日のクーデタで恐怖政治と国民公会は終了
決断力のない政府 総裁政府
テルミドール9日のクーデターで独裁者、ロベスピエールの時代は終わり、総裁政府ができます。
独裁の後は一体どんな政府ができたのでしょうか。
それはジロンド派が中心で五人のリーダーで政治をする政府です。
五人で話し合って政治をする仕組みだったら、独裁政治は防げますよね。
ジロンド派というのは共和制を支持する中での穏健派のグループのことですよ。
つまり、王のいない国を目指すグループでも過激でない方です。
やっぱり、ロベスピエールの独裁によって過激なジャコバン派は人気がなくなったのですね。
ただ、独裁を徹底的に防止した総裁政府にも大きなデメリットがありました。
デメリットというのは決定して行動するまでに時間がかかるという点です。独裁を避けてみんなで話し合うので、なかなか意見がまとまりません。
そんな行動力のない政府に国民は不満を持ちますよね。だってルイ16世を処刑し、周辺の国々を敵に回してしまいました。

そうすると、ちまちま話し合っている暇なんてありません。
フランスの人たちはこんなふうに思います。
「今の政府はダメだ。どこかに強い軍事力とリーダーシップでフランスの自由と平等を守ってくれるリーダーはいないのかな」
そんなことを人々が考えていたとき、ある人物が注目されました。
ある人物というのは軍人ナポレオン・ボナパルトですよ。
『余の辞書に不可能はない』という名言でも有名ですよね。
当時ナポレオンはイタリアやエジプトに遠征し、勝利を収めていました。なので、ナポレオンなら新しいリーダーにふさわしいと人々は考えます。
そんな背景もあって、ナポレオンは総裁政府に対してのクーデターを実行し、成功しました。ナポレオンが総裁政府を倒したクーデターをブリュメール18日のクーデタといいますよ。
そうして、ナポレオンがリーダーの統領政府が生まれ、フランス革命は終結します。
このパートのまとめ
- 恐怖政治の後、5人のリーダーで決める総裁政府が成立
- 総裁政府の決定に時間がかかるというデメリットから国民は不安に
- そんな中、軍人ナポレオン・ボナパルトがフランスの次のリーダーとして注目される
- ナポレオンは国民の支持を受けてブリュメール18日のクーデタを起こす→総裁政府からナポレオンがリーダーの統領政府に
まとめ
いかがでしたでしょうか。今回はフランス革命について丁寧に解説しました。正直長かったですよね。今回の内容を簡単にまとめると
今回のまとめ
- フランス革命=王政から共和政を実現した市民革命
- フランス革命は周辺諸国には否定的に受け取られた
- フランス革命前は財政難や古い身分制度のトラブルなどの問題があった
- 第三身分が三部会を抜けた後、国民議会→立法議会→国民公会(→恐怖政治)→総裁政府という風に革命の中心組織は移り変わった
- 最後の総裁政府を軍人ナポレオン・ボナパルトがクーデタにより総裁政府から統領政府(ナポレオンがリーダーの政府)に(フランス革命終了)
という感じです。何度も言いますが、フランス革命って色々な事件も起こるし、革命の中心グループもコロコロ変わって複雑ですよね。そこで革命政府の変化と主な出来事を図で確認しましょう。
フランス革命自体はナポレオンがリーダーになった時点で終了です。しかし、まだ平和なフランスとはほど遠いという状況になりますよ。
最後まで読んでいただきありがとうございました。