皆さんこんにちはルリアゲハです。
世界史で中国史を勉強していると出てくる明という王朝。
という感じで記憶にない方もいるかもしれません。
思い出せないという人も大丈夫です。
この記事を読めば
この記事で学べること
- 明の成立から滅亡までの流れ
- 政治の特徴
- 最盛期の永楽帝
- 明のピンチ 北虜南倭について
- なぜ明は滅亡したのか
について分かります。
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目次
明王朝とは
明王朝は 元王朝の次に中国を支配する王朝です。
紅巾の乱で頭角を現した朱元璋によって建国されます。ちなみに紅巾の乱というのは、元朝末期に起こった乱ですね。
元朝(モンゴル帝国)については
で詳しく解説していますよ。
明王朝は
- 漢民族の王朝
- 管理的な統治
でした。
なので、明王朝はモンゴル人の王朝、元や自由な統治をした漢民族の王朝、宋とは全く毛色の違う王朝ですね。
ちなみに、明の都は最初は南京で、永楽帝以降は北京です。
洪武帝の管理的な統治
明を建国した朱元璋は洪武帝として即位します。なので、
洪武帝=朱元璋
ですね。
洪武帝は元々貧しい農民でした。だから貧しい人々にも優しい統治をしたのかと思いきや…実際は真逆だったのです。そう、彼の統治は超管理的でした。
具体的には
- 中書省を廃止し、六部を皇帝の直属に
- 租税台帳(賦役黄冊)と土地台帳(魚鱗図冊)を作る
- 民間貿易を禁止(海禁)
- 里甲制で農民をまとめる
- 農民に六諭を唱えさせる
- 一世一元の制(一人の皇帝の治世には一つの元号)
という感じです。一つずつ詳しく見ていきましょう。
中書省を廃止し、六部を皇帝の直属に
一つ目の政策は中書省を廃止して、六部(りくぶ)を皇帝の直属にすることです。
中書省というのは皇帝の命令を作る所で、六部は上からの命令に従って、仕事をする役所ですね。なので、皇帝が直接指示しなくても仕事をしてくれました。
しかし、洪武帝は代わりに命令を作ってくれる中書省を廃止し、自分で指示することにします。
自分で、六部に命令して仕事をさせるので、
六部=皇帝直属
になったのです。
自分で直接指示するようになったので、皇帝の自由になりましたが、皇帝の仕事は増えました。大変ですね。
租税台帳(賦役黄冊)土地台帳(魚鱗図冊)を作る
二つ目の政策は租税台帳と土地台帳を作ったことです。
租税台帳の名前は賦役黄冊(ふえきこうさつ)で、土地台帳の名前は魚鱗図冊(ぎょりんずさつ)といいます。
全国の膨大な数の農民を管理するために作られました。
民間貿易を禁止
さらに、洪武帝は民間貿易を禁止(=海禁)します。
なぜ海禁をしたのでしょうか?
理由は国の貿易である朝貢貿易を独占して行うためです。
と思ったかもしれません。
朝貢貿易というのは周辺諸国が貢物を持ってきて、中国は貢物の返礼品を渡すという形の貿易です。
簡単に言うと、貿易をするときに
中国>周辺諸国
という上下関係がありました。
どんな国と朝貢貿易をしていたのかというと
- 朝鮮
- 日本
- 琉球
- マラッカ王国
- 黎朝(ベトナム)
などです。
里甲制と六諭
さらに、里甲制と六諭で末端の農民まで統治しました。
と思ったかもしれません。
簡単に説明すると、里甲制は110家族で一つのグループとして税を集めさせたり、治安維持をする仕組みです。
一方、六諭は儒教を分かりやすくした6つのスローガンで農民を統治する仕組みです。
例えば、目上の人は敬おう、父母を大事にしようという感じですね。
六諭をみんなで唱えさせて、国に反抗しないようにしたのです。教育と洗脳は紙一重なものですね。
最盛期 永楽帝
明の最盛期は永楽帝の治世です。
ちなみに、永楽帝が即位するまでには一波乱ありました。どんな波乱だったのでしょうか?
波乱というのは、燕王(後の永楽帝)が、皇帝に対してクーデターを起こしたこと(靖難の役)です。
靖難の役(せいなんのえき)では2代目皇帝、建文帝を倒すために燕王は挙兵します。結果、クーデターは成功し、燕王は永楽帝として即位しました。
永楽帝は
- 南京から北京に遷都
- 皇帝の居城、紫禁城を造営
- 内閣大学士の設置
- 5回にわたるモンゴル遠征
- 鄭和の大航海を命じる
などを行います。
それでは、内閣大学士と鄭和の大航海について詳しく見ていきましょう。
内閣大学士というのは、皇帝の補佐役です。以前の中書省に代わって、皇帝の命令を出すのを手伝いました。
鄭和の大航海は、イスラーム教徒で宦官の鄭和(ていわ)に南海遠征を命じたことです。
なぜ、永楽帝は南海遠征を命じたのでしょう?
答えは南海諸国(東南アジアやインド、アフリカのマリンディなど)に朝貢貿易を促すためです。明の偉大さをアピールするために、
- 数十隻の船
- 数万人の乗組員
から成る大艦隊で、5回も遠征しました。
簡単に言うと、
「俺たちの国は強いぞ!だから早く貢ぎ物を持ってきた方が良いぞ!」
とアピールしたということですね。
明のピンチ 北虜南倭
永楽帝の死後、明はあるピンチに悩まされていました。
どんなピンチなのでしょうか?
もちろん北虜南倭ですね。
北虜南倭というのは北からはモンゴル系民族が攻めてきて、南では倭寇という海賊が密貿易や略奪をするという状態です。
北のピンチ モンゴル系民族の侵入
まずは、北でのモンゴル系民族の侵入から見ていきましょう。
モンゴル系の民族にはオイラトとタタールという民族がいました。
二つの民族のうち、オイラトが明の皇帝、正統帝を捕虜にする事件(土木の変)が起きます。
ちなみに、~の役とか~の変、~の乱とかややこしいですが、ちゃんと違いがあります。
変は戦いを仕掛けた側が勝った時で、役は戦いという意味で、乱は戦いを仕掛けた側が負けた時に使われます。なので、オイラトが戦いを仕掛けて皇帝を捕虜にした(=勝った)ので、
土木の”変”です。
結局正統帝は帰って来られたのですが、北方の防御を固める必要がありました。そのために、明は万里の長城を改修していきます。
南のピンチ 倭寇
南の沿岸では倭寇が密貿易や略奪を繰り返していました。
明では民間貿易は禁止されていましたよね。
なので、”密貿易”です。
密貿易をした例として、種子島の鉄砲伝来が挙げられます。鉄砲を日本に伝えたのはポルトガル人ですよね。しかし、そのポルトガル人は中国(明)の民間船に乗っていたのです。
密貿易をしていた倭寇はついに南京まで、迫ってきました。
明は倭寇を何とかするために、海禁を緩和します。
明の滅亡
14代皇帝の万歴帝の時代になると明はどんどん衰退します。
衰退した要因の一つは、万歴帝は政治を全然しなかったことです。
最初のころには張居正(ちょうきょせい)とともに一条鞭法(いちじょうべんぽう)という税制を実施します。
一条鞭法というのは、税を銀で治めさせるようにした税制です。貿易で銀が広く流通するようになったので、行われました。
一条鞭法についてもっと詳しく知りたい人は(世界史)違いが説明できる 一条鞭法と地丁銀制(中国史) がおすすめです。
万歴帝が政治をしなくなって、多くの危機が訪れました。例えば、
- たび重なる戦争で財政難になる
- 官僚と宦官の対立
- 民衆への重税
- 飢饉
です。
こうした危機で、多くの反乱が起きました。
特に大規模なのが、李自成の乱です。乱の中心となった李自成はついに北京を占領します。そして、明は滅亡しました。
まとめ
いかがでしたでしょうか。
今回は世界史で勉強する中国の王朝、明について解説しました。
内容をまとめると
- 明は朱元璋が建国した
- 洪武帝として即位した朱元璋は管理的な統治をする
- 最盛期は3代目皇帝の永楽帝
- 北虜南倭は北から異民族、南から倭寇
- 万歴帝は張居正とともに一条鞭法を実施
- 最終的に李自成の乱がきっかけで明は滅亡
という感じです。
今回の内容をしっかり押さえて、テストで高得点を取り、自由で独立した未来を掴んでくださいね。
最後まで読んでいただきありがとうございました。