皆さんこんにちはルリアゲハです。
あなたはナポレオン・ボナパルトという人物について知っていますか?
高校の世界史でフランス革命の直後に出てくる人物ですよね。
しかし、
という疑問を持っているかもしれません。
そこで、この記事では
この記事で学べること
- ナポレオンが活躍した時代背景
- ナポレオンがフランスの皇帝になるまでの流れ
- ナポレオンの行った政治と戦争について
- ナポレオンの敗北→復活→失脚の流れ
について解説しますよ。
つまり、この記事を読み終わればナポレオンについては完璧になります。
ちなみに、この記事はフランス革命の続きなので
という人は
という記事を読むとより理解しやすいですよ。
(しかし、この記事を読むだけでも分かるようにはなっているのでご安心ください)
詳しいプロフィール
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目次
そもそもナポレオン・ボナパルトってどんな人?
そもそも、ナポレオンというのはどんな人だったのでしょうか?
ナポレオン・ボナパルトは元々はフランスの軍人で、不安定なフランスをまとめてくれることを期待され、皇帝になった人ですよ。
上の肖像画からイメージできるように強い軍事力とリーダーシップを持った英雄という感じの活躍をしました。
彼は軍人としてイタリアやエジプトに遠征し、勝利を収めていました。
そのこともあって、ナポレオンは新しいフランスのリーダーとして民衆から注目を集めていたのです。
当時の時代背景
しかし、元々は軍人だったナポレオンはなぜ、新しいフランスのリーダーとして期待されたのでしょうか?
軍事と政治って全く同じものではないですよね。
その理由は当時の不安定だったフランスの状況が密接に関わってきます。
ナポレオンが活躍した当時、フランスはフランス革命が起こった直後でした。
フランス革命というのは王が絶対的な権力を持つフランスを市民たちが立ち上がって変えた出来事のことですよ。
革命の結果、王は処刑されましたが、人々の理想通りの国にはなりませんでした。
というのも王が処刑された後
- 逆らう者は全て処刑の独裁政権の成立
- 独裁を徹底的に排除した結果、優柔不断になった政権の成立
- 周辺諸国を敵に回した結果、フランスは国際的に孤立
などが起こりました。
平和で安定した国とは程遠い状態ですよね。
ここで、三つ目のなぜフランスは国際的に孤立したのかについて詳しく見ていきましょう。
ちなみに、残り二つについてはフランス革命について解説した
という記事で詳しく紹介していますよ。
フランスが孤立した理由を一言でいうと、
です。
当時、フランスの周辺の国々(イギリス・オーストリア・スペイン・ロシアなど)は多くが王や皇帝がいる国でした。
そこに、フランスの王が市民革命によって処刑されたという情報が入ってきます。
そうなると
「うちの国でも市民革命が起こったら、自分の立場が無くなる!」
という風に王たちは危機感を抱きました。
彼らは
という感じに協力してフランスを孤立させます。
これが何度も結成される周辺諸国による対仏大同盟ですね。
一方フランスにとっては、いつ周辺の国に戦争を起こされるか分からないし、味方もいないというピンチが訪れます。
つまり、フランスはフランス自身の力で、国を守らなければならないということですね。
しかし、今ある政府ではとても、フランスを守れそうにありません。
そんな中で国民は、強い軍事力とリーダーシップでフランスの自由と平等を守ってくれるリーダーを求めるようになります。
そんな国民の理想にピッタリ当てはまる人物が見つかりました。
その人物こそがナポレオンですよ。
フランスの人々はナポレオンに国の未来を任せることにし、彼を支持するようになります。
人々に支持されたナポレオンはどんどん影響力を高めていきました。
ナポレオン 皇帝就任
フランスの人々から支持を集めたナポレオンは、フランスにあった政府に対してクーデターを起こしました。(ブリュメール18日のクーデタ)
クーデターは成功し、ナポレオンは新しく作った政府のリーダーになります。
ナポレオンの作った政府を統領政府、彼の就任した政府のトップの役職を第一統領といいますよ。
彼の成立させた統領政府は3人のリーダーがいましたが、ナポレオンが実権を握れる仕組みになっていました。
つまり、事実上の独裁者ですね。
独裁者というとネガティブなイメージを持つかもしれません。
確かに、今の平和な時代に独裁的な政治をすると人々から反感を買いますよね。
ただ、ナポレオンのいた時代は今とは全く異なります。
いつ戦争が起こってもおかしくないという状況で、強い軍事力とリーダーシップで国をまとめてくれるリーダーを求めていたのです。
もし戦争が起こった時に、国には弱い軍隊しかいなくて、リーダーの指示が行き届かなかったら、困りますよね。
そのような背景もあって、独裁的な政治を行うリーダーであっても支持されたのです。
ナポレオンの4つの政策
人々から期待されていたナポレオンはさらに民衆の支持を集めようとしました。そのために行ったのは
- ローマ教皇との和解
- カトリックの復活
- イギリスとの休戦条約締結
- ナポレオン法典制定
などですよ。それぞれについて見ていきましょう。
一つ目のローマ教皇との和解というのはどういうことでしょうか?
実はフランス革命のときの対立がきっかけで、カトリック教会と市民の関係が悪化していたのです。
フランス革命は
市民と聖職者・貴族の対立
でした。
そのこともあって、カトリック教会の影響を弱めるために信仰を禁止したりしていました。
しかし、ナポレオンはカトリック教会のトップであるローマ教皇と和解し、二つ目に紹介したようにカトリック信仰を復活させました。
こうすることで、カトリックの人々からも支持を集めます。
次のイギリスとの休戦条約というのはアミアンの和約を締結したということですよ。
フランス革命の時に王を処刑したこともあり、イギリスとフランスはいつ戦争を始めてもおかしくない状態でした。
それぐらい仲が悪かったということですね。
アミアンの和約が結ばれたことで、第二回対仏大同盟は崩壊し、フランスには一時的に平和が訪れます。
第二回対仏大同盟というのはナポレオンが頭角を現したことがきっかけでできたものですね。
最後のナポレオン法典制定について見ていきましょう。
ナポレオン法典は聞いたことがあると思います。
ナポレオン法典は1804年に制定された国民の権利を保証した法のことですよ。
ナポレオン法典で保証された権利としては、私有財産の不可侵、契約の自由などがあります。
主に国民の自由や平等に関する権利ですね。
フランスの人々がフランス革命のときからずっと求めてきた権利を法の力で保証したのです。
これらの政策を行った結果、ナポレオンの人気はより高まります。
最終的には、国民による投票によって皇帝に就任しました。
ナポレオンの対外戦争と外政
皇帝となったナポレオンはどんどん対外戦争を行います。
ここで、
と思ったかもしれません。
答えはシンプルです。
ナポレオンが戦争を行った理由は
フランスに周辺諸国が攻めて来ないようにするため
ですよ。
なぜなら、フランスが周辺の主要な国々に勝ち続けられれば、誰もフランスに攻めてこなくなりますよね。
もちろん負け続けてしまうと、全てが失敗するハイリスク・ハイリターンな戦略ですが。
しかし、フランスが勝ち続けさえすれば、フランスは平和で安定した国になります。
そうしてナポレオンは
- トラファルガーの海戦
- アウステルリッツの戦い
という風に次々と戦いを行います。
それではそれぞれの戦いについて見ていきましょう。
イギリスと激突 トラファルガーの海戦
トラファルガーの海戦はイギリス海軍と戦った海戦です。
トラファルガーというのはスペインのトラファルガー岬という場所のことで、この近くで戦いが行われました。
ちなみに戦争があったのは地図でいうと、この辺りです。
フランスはイギリス上陸を狙ってこの戦いを行いましたが、イギリスのネルソン提督によって追い詰められてしまいます。
最終的には、フランスが敗北し、フランスはイギリス上陸を諦めて大陸を征服する戦略に切り替えました。
ナポレオンの黄金期 アウステルリッツの戦い(三帝会戦)
アウステルリッツの戦いはフランスがオーストリア・ロシア連合軍と戦った戦争です。
フランス、オーストリア・ロシアの皇帝が参加したことから三帝会戦とも言いますよ。
ナポレオンはこの戦いに勝利し、さらにこの後プロイセンにも勝利します。
この結果、ナポレオンは大陸のヨーロッパ諸国の大半を支配するようになりました。
そして、支配したドイツにライン同盟を作らせ、その結果として神聖ローマ帝国は完全に消滅します。
神聖ローマ帝国は三十年戦争後に国をまとめる力は失われ、国としての名前が残っているだけになっていましたよね。
しかし、ナポレオンによって神聖ローマ帝国は完全に無くなりました。
三十年戦争については
で詳しく解説していますよ。
まとめると、ナポレオンはアウステルリッツの戦いの結果、黄金期を迎えました。
ナポレオン敗北→退位
対外戦争に勝ち続けてきたナポレオンですが、最悪の事態が訪れます。
それが戦争に負け続けることですね。
戦争に勝ち続けることで、フランスの平和と周辺国の支配、皇帝の座を維持していました。
しかし、ナポレオンは負け続けて、追い詰められてしまったのです。
各国の反ナポレオン思想拡大
連敗により、大きく追い詰められた要因としては、周辺の国々に武力でいうことを聞かせていたからと言うのもありますよ。
そのようにして、ヨーロッパ各地にナポレオンの支配に反抗する国が現れました。
ナポレオンに反抗しようという動きを見せた国としてプロイセンやスペインが挙げられます。
プロイセンは首相となったシュタインやハルデンベルクが農奴解放などの改革を行いました。
プロイセンの近代化とナポレオンへの反抗を目的としたこの改革をプロイセン改革といいます。
さらにプロイセンでは哲学者フィヒテが『ドイツ国民に告ぐ』というスピーチを行い、ナポレオンへの反抗とドイツ人の結束を訴えかけました。
簡単に言うと、
という感じですよ。
また、スペインではナポレオンによるスペインの支配に反発して、人々がゲリラ戦を行います。
反乱が起こったきっかけは、ナポレオンが自分の兄をスペイン王に即位させたことですよ。
と恐れたスペインの人たちは、命がけで抵抗しました。
スペインの画家ゴヤは彼らの命がけの抵抗を絵に描いて称賛します。
その絵が『1808年5月3日マドリード市民の処刑』という絵ですよ。
そうして、立ち上がった周辺国によって、ナポレオンは退位させられてしまいます。
ちなみに、ナポレオンが退位するきっかけになった戦いをライプツィヒの戦いと呼びますよ。
それではナポレオンが連敗した二つの戦い
- モスクワ遠征
- ライプツィヒの戦い
について詳しく見ていきましょう。
モスクワ遠征
モスクワ遠征というのはナポレオン率いるフランス軍がロシア軍に大敗した戦いです。
そもそも、なぜモスクワ遠征は始まったのでしょうか?
その理由には大陸封鎖令というナポレオンが出した勅令が大きく関わっています。
大陸封鎖令の内容を簡単に説明すると、
イギリスと大陸にあるヨーロッパ諸国の貿易を禁止する勅令
ですよ。
イギリスと大陸の貿易ルートを法の力で封鎖したので、大陸封鎖令ですよね。
大陸封鎖令の狙いは貿易を封じることで、イギリスを経済的に追い詰めることでした。
もともとイギリスは大陸のヨーロッパ諸国に工業製品を輸出し、食料を輸入していました。
つまり、貿易によって、お互いに恩恵を受けていたのです。
そこで、貿易を禁止すれば、イギリスは経済的な打撃を受け、工業製品が買えなくなったヨーロッパ諸国はフランスの工業製品を買ってくれると考えました。
フランスにとってはライバルを追い詰められ、自国の産業もより発展するという最高の政策ですよね。
しかし、実際にはフランスが思い描いたようにはなりませんでした。
フランスは思ったよりも産業が発達せず、イギリスもなんとか自力で経済を成り立たせました。
さらに一番最悪だったのが、食料をイギリスに輸出できなくなったヨーロッパ諸国の反感を買ってしまったことです。
その事がある事件を引き起こします。
それがロシアの大陸封鎖令破りですよ。穀物が売れなくなって困ったロシアは、こっそりイギリスに穀物を輸出したのです。
もちろんナポレオンはロシアがルールを破ったことに怒り、モスクワ遠征を行いました。
普通に考えてヨーロッパの大半を支配できたナポレオン軍は、ロシアにとっても強大な敵ですよね。正面から戦っても勝ち目はありません。
しかし、そんな敵にどうやって勝ったのでしょうか?
ロシア軍の戦略はわざと負けて撤退し、冬を待って反撃するといったものでした。
つまり、ロシアの地理的な特徴を活かし、寒さと食糧不足によって敵を追い詰める戦略ですね。
この作戦は大成功し、ナポレオン軍は壊滅状態になりました。
ライプツィヒの戦い
ナポレオン軍がロシアに負けたと知ったヨーロッパ諸国は、一気に反撃します。
それがライプツィヒの戦いですね。
追い詰められたナポレオン軍はこの戦いに負けてしまいます。
流刑
ライプツィヒの戦いに敗北したナポレオンは退位を迫られました。
退位した後、地中海にあるエルバ島に流刑されます。
ちなみに、エルバ島はここですよ。
まさにフランスやイタリアと目と鼻の先ですよね。
と思ったかもしれません。
予想通りナポレオンは再び戻ってきますよ。
百日天下のナポレオン
ナポレオンがエルバ島に流された後、ヨーロッパの主要な国々はウィーン会議にかかりきりでした。
ウィーン会議というのは、ナポレオン流刑後のヨーロッパをどのように統治するかを決める国際的な会議ですよ。
しかし、この会議は各国の利害が一致せず、なかなか終わりませんでした。
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でより詳しく解説していますよ。
各国が長期間ウィーン会議をしているスキに、ナポレオンはエルバ島を脱出します。
その後、彼はパリに戻ってきて皇帝に復位しました。
再び皇帝となったナポレオンはフランスの人々や周辺諸国に反発されないようにしますが、うまくいきません。
最終的にはワーテルローの戦いで敗北し、再び退位されられてしまいます。
退位させられたナポレオンは、大西洋の絶海の孤島 セントヘレナ島に流刑されました。
ちなみにセントヘレナ島の位置はこちらです。
User:TUBS - File:United Kingdom on the globe (Saint Helena, Ascension and Tristan da Cunha special) (Africa centered).svg, CC 表示-継承 3.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=29299138による
一度目に流されたエルバ島とは比べものにならないほど、遠いですよね。
さすがにナポレオンも戻ってこれず、この島で死去しました。
まとめ
いかがでしたでしょうか。
今回はフランス革命後のヨーロッパを大きく変えたナポレオンについて見ていきました。
今回の内容を簡単にまとめると、
今回のまとめ
- ナポレオンは主にフランス革命後に活躍した、軍人・政治家・皇帝
- フランス革命後の混乱をまとめたリーダーとして支持された
- その後、クーデターを起こし統領政府を樹立、自らは第一統領となった
- アミアンの和約の締結やナポレオン法典を制定→皇帝に即位
- トラファルガーの海戦やアウステルリッツの戦いなど積極的に対外戦争を行った
- モスクワ遠征の失敗により、各国が反撃し、ライプツィヒの戦いにより退位させられた→エルバ島に流刑
- 再び皇帝に復位→ワーテルローの戦い敗北でセントヘレナ島に流刑
という感じになります。
今回の内容をマスターして、世界史の成績アップを狙ってくださいね。
最後まで読んでいただきありがとうございました。