皆さんこんにちは、ルリアゲハです。高校で世界史を勉強していると、ローマ帝国が出てきますよね。しかし、
ローマ帝国ってコロコロと政治形態が変わるけど、よくわからないなあ
世界史でローマ帝国が苦手なんだけど、受験のために完璧にしておきたいなあ
と悩んでいる人もきっといるでしょう。
そこで今回はローマ帝国全体の流れを完全版という形で解説していきます。
この記事は
こんな方におすすめ
- これからローマ帝国について学ぶ人
- ローマ帝国の政治形態の変化を知りたい人
- ローマ帝国を復習したいけど、どこから復習すればいいか分からない人
- 定期テストに向けてローマを幅広く勉強したい人
- 世界史を得意科目にしたい人
におすすめです。
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目次
ローマ帝国って何?
ローマ帝国というのは紀元前8世紀にイタリア半島で生まれ、西ヨーロッパ、地中海世界という風に領土を拡大した国です。古代ギリシアとともに古代ヨーロッパを学ぶ上で超重要な国ですよ。
また、ローマ帝国は
王政→共和政→帝政
という風に支配体制がコロコロとかわったのもとくちょうです。
ローマ帝国は476年にゲルマン人のオドアケルにより西ローマ帝国が滅亡するまでの約1000年間続きました。また、東ローマ帝国(ビザンツ帝国)も含めると、さらに1000年以上続いた国ですよ。
まさに、ヨーロッパの歴史を語る上で超重要な国ですね。
ローマ帝国の特徴
ローマ帝国の特徴として
- 最初はイタリア半島だけだったが、西ヨーロッパや地中海沿岸を統治するようになった→ローマ帝国には多くの民族がいた
- 貴族(主要な公職を独占する特権階級)と平民(中小農民)がいる身分制だった
- 王政→共和政→帝政という風に支配体制が変化した
- 公用語はラテン語
といったことが挙げられます。
王政から共和制へ
何も知らない人が聞くと
と思うかもしれません。
しかし、ローマ帝国というのは最初は王政(王が治める)国でした。
その王様を追放して、共和政を実現したという歴史があります。また、帝政ローマになったのは共和政ローマがうまく行かなくなった後ですよ。
どういうことかと言うと、もともとローマ帝国はラテン人がローマに作った小さな都市国家でした。そして、ラテン人が来る前には先住民のエトルリア人の王政の国があったのです。
後からやっていたラテン人が好き勝手する王様を追放し、話し合いで政治をする共和政ローマが成立しました。
帝国というイメージとはぜんぜん違う始まり方ですよね。
平民 vs 貴族の対立
元老院とコンスル
王政から共和政になったローマには、元老院とコンスル(執政官)という共和制政治を行う仕組みができます。
と疑問に思ったかもしれません。元老院というのは貴族が集まって話し合い、法を作ったりして国を動かす議会です。
また、コンスルというのは執政官という名の通り、最高官職(一番偉い政治のリーダー)で、2名いましたよ。今の日本で例えると、元老院が国会で、コンスルが総理大臣というイメージですね。
しかし、実質的に国を支配していたのは元老院でした。だから、コンスルはリーダーだったけど元老院の言うことを聞いて動いていたということですね。
しかし、元老院とコンスルだけだと非常時に迅速な行動ができないですよね。というのも、コンスルは元老院の決定に従うので、元老院で話し合わないとコンスル(執政官)は何もできません。
そうしたデメリットを解決するために、非常時限定の役職である独裁官(ディクタトル)が導入されました。ディクタトルは非常時のみ2人のコンスルの中から選ばれ、独裁者として迅速に国を動かすことが認められます。
参政権を求める平民
ローマというのは貴族と平民がいる身分制の国でした。しかし、今まで紹介した元老院もコンスルも全て貴族だけが参加していますよね。
なので、平民たちは
「俺達にも政治に参加させろ!」
という風に参政権を求めました。政治に参加していなかったこの頃の平民たちは一体何をしていたのでしょうか?
実はこの頃の平民が頑張っていたことが、彼らが参政権を求める理由とも繋がりますよ。
平民が頑張っていたことというのが
重装歩兵として戦ってローマを守っていた
です。重装歩兵というのは古代ギリシアを勉強したときに聞いたことがあるかもしれません。重装歩兵は陸上で密集隊形(ファランクス)を組んで戦う軍隊のことです。
密集して戦うことで、効率的に敵と戦える戦闘スタイルでしたよね。
しかし、誰だっていくら国のためとはいえ戦いには参加したくないですよね。だから、
「俺達だって戦ってローマを守っているんだぞ!だから政治に参加させろ!」
という平民たちの意見は少しづつ反映されていきました。
そうして、まず平民のために作られたのは護民官と平民会という仕組みです。護民官というのは元老院やコンスルの決定を拒否できる役職ですよ。
護民官の使える拒否権について理解してもらうために例を上げて説明しましょう。
ある時、平民に不利な法が元老院によって制定されたとします。そんな場合でも、平民は護民官を通じて
「そんな法作られたら俺たちが困るんだけど!今すぐ取り消せ!」
という風に文句を言えるということですよ。(今までだと元老院やコンスルの決定に不満があっても、平民は手も足も出せませんでした。)
もう一方の平民会は平民が集まって政治について話し合う議会のことです。元老院の平民版という感じですね。しかし、平民会の決定を適用するには元老院の承諾が必要というルールが有りました。つまり、平民会と元老院は対等じゃなかったのです。
紀元前5世紀半ば、十二表法が制定されて法が初めて成文化されました。
どういうことかと言うと、文章化して誰でもローマの法を見れるようにし、貴族しか法を知らないという不平等を防ぐために行われたのですよ。十二表法によって平民がより政治に参加しやすくなったということですね。
それから100年ほど経って、今度はリキニウス・セクスティウス法が制定されます。リキニウス・セクスティウス法では2人のコンスルの内1人は平民から選出すると定められました。
最後に行われたのは、ホルテンシウス法の制定です。それにより、平民会は元老院の許可なしで決議ができるようになりました。平民会が作られた頃は平民会の決定を適用するには元老院の承諾が必要でしたよね。
つまり、ついに平民会と元老院が完全に対等となったのです。
こうして、ローマを防衛してきた平民の苦労は何百年という時間をかけて報われました。
ポエニ戦争
そのようにして、平民も政治に参加できるようになり、平民たちの重装歩兵の活躍によりイタリア半島全域を征服することに成功します。征服した人々にも同盟を結ばせることでいろいろな権利を認めていったのです。
どんどん領土を広げていくローマはある地域と衝突することとなりました。ローマと衝突した地域というのがカルタゴです。ローマから見てカルタゴは地中海の向こうを支配する地域で、地中海に出ていきたければ絶対に倒さないとならない地域でした。
そうしてローマとカルタゴはポエニ戦争という戦争をすることになります。
そんなポエニ戦争は3回に渡って行われた長い戦争でした。
と思ったかもしれません。
結果は
第一回 ローマが勝利 シチリア島を属州に
第二回 カルタゴのハンニバルと戦う ローマが勝利
第三回 ローマが勝利 カルタゴは滅亡
という感じです。しかし、これだけだと頭に入りませんよね。
なので、もう少し詳しく解説します。
第一回ポエニ戦争
第一回ポエニ戦争は紀元前264年~146年まで続きました。戦争の結果はローマの勝利で、地中海の島 シチリア島を属州にします。属州というのはローマの征服地のことですよね。ちなみにシチリア島の位置は下の地図でご覧ください。
シチリア島は現在はイタリアの一部で、レモンやオリーブで有名ですよね。
第二回ポエニ戦争
次の第二回ポエニ戦争では、カルタゴのハンニバルとローマの大スキピオが激突しますよ。もちろんハンニバルも大スキピオもちゃんと覚えてくださいね。
戦いの流れを見ていくと、まずカルタゴの英雄ハンニバルは、象を使った作戦でローマを包囲します。どんな風にローマを追い詰めたのかと言うと、なんと象を使って冬のアルプス山脈を超えローマへ攻めるという作戦ですよ。地図で見てみるとこんな感じですね。
意表を突かれたローマはカンネーの戦いに敗北し、一時ピンチに陥ります。そんなピンチからローマを救ったのはローマの名将大スキピオでした。彼はザマの戦いに勝利し、カルタゴからローマを守ります。
第三回ポエニ戦争
最後の第三回ポエニ戦争では、ローマの将軍小スキピオがカルタゴに勝利します。小スキピオというのは名前からも想像できるように、あの大スキピオの孫ですよ。大スキピオはついさっき学んだ第二回ポエニ戦争で活躍した将軍ですよね。
ローマが勝利した結果、カルタゴは滅亡し、地中海の覇権をローマが握ることになりました。
ポエニ戦争後のローマ荒廃
3回に渡るポエニ戦争に勝利したローマですが、戦争が終わるとある問題に直面しました。一体どんな問題なのでしょうか?
ローマが直面したのは人々が戦争から帰ってくると、自分たちの農地が荒れ果てていたという問題です。
さらに悪いことに、
- 属州からの安い穀物が出回る
- 戦争奴隷を使った大土地経営(ラティフンディア)の普及
などがポエニ戦争後起こり、彼らが一生懸命農業しても農作物が売れなくなります。ちなみに、属州というのは共和政ローマに征服された地域のことですよ。
また、大土地経営(ラティフンディア)というのはローマに戦争で負けた人々を戦争奴隷にして、大農園で働かせるということです。
奴隷を使って広い土地で農業をするので、ラティフンディアには低コストで多くの農作物を作れるという利点がありました。
そんな風に農業をしても生活が苦しい状況に陥って、
「こんな荒れ果てた土地もう管理できない!」
となった農民たちは、仕事を求めて大都市ローマへやってきます。
多くの仕事を失った農民がローマへ流入したことで、内乱の1世紀という混乱の時代が到来しました。
内乱の1世紀
先程、仕事を失った農民がローマへ流入したと話しましたが、もちろん解決するために動いた人もいました。騒動の解決を試みたのはグラックス兄弟です。彼らは改革(グラックス兄弟の改革)をして混乱を収めようとしますが、失敗してしまいました。
農民たちがローマに移住していて起こったのは
- 無産市民となった農民の不満→パンと見世物を要求
- 平民派と閥族派の対立
- スパルタクスの反乱
- 同盟市戦争の頻発
といった出来事です。これだけじゃよくわかりませんよね。それぞれ詳しく見ていきましょう。
まず最初に起こったのは、無産市民となった農民たちの不安が爆発したことですよ。
「ローマにさえ行けば、仕事が見つかって安定した暮らしができる」
と考えてローマに出てきた農民たちの願いは叶いませんでした。努力が報われなかった農民たちは
「苦労してローマまで来たのに話が違うじゃないか!とにかくパンと見世物を提供しろ!」
という風に不満を爆発させました。ちなみに、この時代の見世物(娯楽)というのは剣闘士による戦いを見物することですよ。
人々は闘技場で行われる血生臭い戦いを娯楽として見に来ていたのです。
そんなふうに、農民が大量流入し、貧しい人々が一気に都市に増えたので
- 貧富の差の拡大
- 治安の悪化
という問題がどうしても起こりました。
そうした問題が閥族派と平民派の対立というトラブルを引き起こします。閥族派と平民派の対立というのは元老院を支持するグループと元老院に反発するグループの争いですね。
どんな風な争いだったのでしょうか?
答えは閥族派と平民派それぞれが兵隊を率いて争うという感じです。
ここであなたに覚えてほしい人物が二人います。それは閥族派のスラと平民派のマリウスですよ。どちらもそれぞれの派閥の中心的人物です。
つまり、閥族派は元老院支持派、平民派は元老院反対派から人気を集めるために争いました。
さらに、争っていたのは閥族派と平民派だけではありません。スパルタクスを中心とした剣闘士たちやローマに服属する同盟市もでした。
剣闘士たちは自由を求めてスパルタクスの反乱などを起こします。しかし、反乱は鎮圧されていしまいました。
共和制から帝政に変化 三頭政治
ポエニ戦争以降終わらない混乱を抑えるためにある方法でローマを収めようとします。その方法はどんなものなのでしょうか?
ローマを収める方法というのは三人のリーダーで治める三頭政治という方法です。
今までにない統治方法ですよね。三頭政治のメリットとしては、
- 共和政(みんなで話し合って政治をする)よりは強いリーダーシップが取れる
- 3人で決めるので完全な独裁にはならない
と言う利点が挙げられます。なんかうまくいきそうですよね。
そんな三頭政治は2回に渡って続きます。
それでは見ていきましょう。
第一回三頭政治
第一回三頭政治は
ポンペイウス、クラッスス、カエサル
の三人によって行われました。この三人だったら、
カエサルがいちばん有名ですよ。カエサルはガリア遠征(ガリア=現在のフランス)を行ったというのが主な功績です。その時の様子は彼の書いた歴史書『ガリア戦記』に残っていますよ。
途中でクラッソスが戦死して、ポンペイウスとカエサルの二人になります。しかし、ポンペイウスとカエサルの二人になってからが、連携が最悪なのですね。どんな風に最悪だったかと言うと
カエサル対ポンペイウス+元老院
という構図になってしまったのです。
国のトップが仲間割れって最悪の状態ですよね。
しかし、カエサルは
- ガリア遠征
- 敵対したポンペイウスを打倒する(ポンペイウスは三頭政治から離脱)
などの活躍によって、民衆からは支持されていました。ただ、最終的にはカエサルは民衆に見限られて、部下に暗殺されますよ。
ここで、
と思ったかもしれません。この問いの答えは記述問題のためにも理解しておいたほうが良いですよ。
なぜカエサルは人々からの支持を失ったのかというと
ココがポイント
です。ディクタトルというのは独裁的に物事を決められる役職のことですよね。
しかし、あまりにも強力すぎるので、非常時限定の役職で、任期も半年だけでした。
なんでそんな制限があるのかというと、
ローマは好き勝手していた王様を追放して生まれた国だからですよ。そういった歴史もあって、「独裁者は排除する」というのがローマの人々の考え方なのです。
つまり、カエサルはローマの伝統を無視して、かつての王のような独裁者になろうとしたということですね。
その結果、カエサルは部下ブルーテゥス(ブルータス)らに暗殺されました。
カエサルが暗殺されて、第一回三頭政治は幕を閉じます。
第二回三頭政治
第一回三頭政治が失敗した後の混乱を治めたのが
オクタウィアヌス、アントニヌス、レピデゥス
の三人です。
全員カエサルと繋がりがある人達で、オクタウィアヌスはカエサルの養子、アントニヌスとレピドゥスはカエサルの部下ですよ。
しかし、まもなくレピドゥスは三頭政治から追い出されてしまいます。
その後、三人が二人になるとまた争うんですよ。
どんな争いが起こったかというとエジプトも巻き込んだアクティウムの海戦が起こりました。
アクティウムの海戦で戦ったのは
オクタウィアヌスの軍隊とアントニヌス・クレオパトラ連合軍
です。
クレオパトラというのは絶世の美女で、エジプトの君主で有名ですよね。なんでこうなったかいうと、エジプトの君主クレオパトラはアントニヌスに急接近し、二人は恋人同士になります。
しかし、オクタウィアヌスは
という風に宣戦布告しました。
結果、
オクタウィアヌスが勝利し、ローマはオクタウィアヌスが一人で治めることとなります。
帝政ローマ
共和制だったローマは二回の三頭政治を経て、帝政ローマに変化していきました。帝政というのは文字通り、皇帝が国を治める政治体制のことですね。
しかし、
と疑問に思ったかもしれません。
帝政になって変わったのは皇帝1人に権力が集中するようになったという点ですよ。つまり、政治は皇帝1人で行うようになったということですね。
ただ、
とも思ったかもしれません。
結論から言うと、大丈夫でしたよ。なぜならローマ帝国の初代皇帝は民衆の支持を集めるのが上手でしたから。
初代皇帝の巧みな戦略も併せてみていきましょう。
初代皇帝 オクタウィアヌス
ローマ帝国の初代皇帝になったのはオクタウィアヌス(アウグステゥス)です。オクタウィアヌスは第二回三頭政治でも登場しましたよね。
第二回三頭政治で活躍した功績から、元老院からアウグストゥス(尊厳者)という称号をもらいます。
そんな彼は”実質的”な初代皇帝に就任します。
と疑問に思ったかもしれません。
しかし、これがオクタウィアヌスの民衆から支持を集める戦略です。オクタウィアヌスが行った政治のスタイルは帝政(元首政)でした。いわば独裁者ですね。
元老院からアウグストゥスという名誉な称号をもらったアウグストゥスは
「いやいや、僕はアウグストゥスなんてそんなすごい人じゃないよ!あくまでも普通のローマ市民だよ!」
という風に振る舞います。ちなみにセリフの中の普通のローマ市民のことをプリンキパトゥス(第一の市民)といいますよ。
名誉な立場でありながら、それを堂々と誇らないという振る舞いにより、オクタウィアヌスは絶大な支持を集めました。
民衆から支持されていたので、実質的な皇帝で居続けられたのです。
人々に対する態度が独裁的な政治を行った運命を分けたと言えますね。
ここで一つあなたに覚えてほしい戦いの名前があります。それが、トイトブルク森の戦いです。
トイトブルク森の戦いはオクタウィアヌスのときに行われた戦いで、この戦いに敗北したことで、ライン川がローマ帝国の北限となりました。
ローマ帝国の黄金期 五賢帝のパクス=ロマーナ
オクタウィアヌス(アウグステゥス)の治世から少し経つと、ローマ帝国の黄金期が訪れます。
ローマの黄金期のことを別名パクス=ロマーナ(ローマの平和)とも言いますよ。
200年間の平和な時代を作ったのは五賢帝という5人の優れた皇帝です。
それでは、5人の皇帝の名前を見ていきましょう。
五賢帝は、
ネルウァ、
トラヤヌス、
ハドリアヌス、
アントニヌス=ピウス、
マルクス=アウレリウス=アントニヌス
の5人ですよ。
特に覚えてほしいのはトラヤヌス、ハドリアヌス、マルクス=アウレリウス=アントニヌスです。
五賢帝の2人目トラヤヌス帝はローマ帝国最大領域を達成しました。
3人目のハドリアヌス帝はローマの守りを固めた皇帝ですよ。例えば、彼は今のイギリスに異民族の侵入を防ぐ巨大な城壁を築きました。
五賢帝最後のマルクス=アウレリウス=アントニヌスはストア派哲学で有名です。衝撃的なのが、彼の名前が中国(後漢)まで伝わっているということですね。
このことからわかるように、パクス=ロマーナの時代はアジアとの交易が活発でした。
しかし、パクス=ロマーナで起こった衰退として、
ラティフンディア(奴隷制経営)が衰退したということが挙げられます。
なぜなら、戦争が減少して、労働力である戦争奴隷も減ったからですよ。ラティフンディアは戦争奴隷と大きな土地を使って農業することでしたよね。
そうして、小作料を払って借りた土地で大土地農業をするコロナ卜ゥスになります。小作人のことをコロヌスといいますよ。
軍人皇帝時代
しかし、最後の五賢帝マルクス=アウレリウス=アントニヌスの治世が終わると、再び混乱の時代が訪れます。
その混乱の時代というのがカラカラ帝の治世と軍人皇帝時代ですよ。
最初のカラカラ帝というのはアントニヌス勅令で、帝国内の全自由民に市民権を与えた皇帝です。
しかし、アントニウス勅令を出した狙いは一体何なのでしょうか?
それはローマ帝国の税収の確保と治安の安定のためです。この頃のローマ帝国は財政難になっていました。
税を払ってくれる市民を増やせば、必然的に税収も増えますよね。さらに、自由を多くの人に与えることで、反乱を抑える効果も期待できます。ぱっと見はうまく行きそうですが、結局混乱は収まりませんでした。
そして、軍人皇帝時代という時代が訪れます。
もしかすると
と思うかもしれません。
簡単に言うと、
多くの人が武力を使って皇帝の座を争う時代
ですよ。武力で国のトップを争うなんて今では考えられないぐらい物騒ですよね。なんと33年間で14人の皇帝が現れたそうです。
数年に一回皇帝が入れ替わっているということになりますよね。
さっき紹介した、カラカラ帝のアントニウス勅令が失敗したこともあって、帝国はもっと財政難になり治安も悪化していました。
そんな帝国の衰退が軍人皇帝時代を引き起こしたのです。
ディオクレティアヌス帝とコンスタンティヌス帝
どんどん衰退していくローマ帝国に二人の皇帝が登場しました。ディオクレティアヌス帝とコンスタンティヌス帝ですね。帝国の命運を握った二人について見ていきましょう。
最初のディオクレティアヌス帝は帝国を4つに分けて、キリスト教徒を大迫害した皇帝です。また、さっき紹介した軍人皇帝時代の最後の皇帝でもあります。
帝国を4つに分けたってどういうこと?
と思ったかもしれません。その政策は四帝分治制といって、2人の正帝と2人の副帝で4つに分けて帝国を治める政策ですよ。
今までは領土が広すぎて皇帝一人の力では不安定なローマを管理しきれませんでした。
しかしこうすれば、国が大きくても皇帝一人ひとりの負担を減らせますよね。
ただ、ディオクレティアヌス帝のもう一つの政策―皇帝崇拝の強要が超不評なんですよね。これをしたせいで、多数のキリスト教徒が大規模な迫害を受けました。
なんで迫害が起こったかというと、一神教の一つであるキリスト教を信じる人々に、他の神を強要してしまったからですよ。
つまり、
「私達はこの世界を作ったただ一人の神だけを信仰しているのに、他の神を信仰するなんてありえない」
と主張するキリスト教徒に
「俺は皇帝だ!いいから黙って信仰しろ!」
という風にしてしまったのです。これだと多くの人から反感を買いますよね。
次に紹介するコンスタンティヌス帝は
- キリスト教を公認
- 東の都コンスタンティノープルに遷都(都を移す)
といったことを行った皇帝です。どちらも後のヨーロッパに大きな影響を与えたと言えますね。
なぜ今まで禁止していたキリスト教を認めたのでしょうか?なぜかというと、キリスト教の影響が皇帝でも無視できないほど強まったからですよ。
どれぐらいキリスト教の影響が強かったかと言うと、「このままキリスト教を禁止し続けたら国が分裂してしまう」というぐらいです。
その結果、コンスタンティヌス帝は国をまとめるためにキリスト教を公認しました。
さらに、キリスト教は後の時代、テシドシウス帝の治世に国教化(キリスト教のみを認める)します。
コンスタンティヌス帝のもう一つの功績、コンスタンティノープルへの遷都についてみてみましょう。
と疑問を持ったかもしれません。
簡単に言うと、あれこれ皇帝に口を出してくる元老院から逃げるためですよ。
元老院があるのはローマですよね。ということは、ローマから遠く離れたコンスタンティノープルに都を置けば、皇帝の好きなように政治ができるのです。
コンスタンティノープルがどこにあったかというと、現在のトルコのイスタンブールという都市ですよ。地図でいうと赤丸のところです。
コンスタンティヌス帝はもともとそこにあったビザンティウムという街を、自分の名にちなんでコンスタンティノープルと改称しました。
コンスタンティノープルは後で出てくる東ローマ帝国(ビザンツ帝国)の首都になるので、今のうちに覚えておきましょう。
ローマ帝国の滅亡
これまで、
- 財政難
- 貧富の差の拡大→治安の悪化
という風にピンチだったローマですが、ある侵入者たちによって滅亡します。
その侵入者というのは主に西ヨーロッパに現れたゲルマン人ですよ。
ゲルマン人の大移動と呼ばれる出来事ですね。
なんで、ゲルマン人の大移動が起こったかというと、フン人という民族が東からきて、ゲルマン人の住む場所が奪われたからです。
だから、ゲルマン人たちは家財道具を持って家族総出で逃げてきたということですよ。
しかし、ローマ側からすると突然入ってきたゲルマン人への対応に迫られ大混乱に陥ります。
大混乱を乗り切るため、当時の皇帝テオドシウス帝は395年にローマ帝国を東西に分けることにしました。
下の地図の赤い線の左側が西ローマ帝国、右側が東ローマ帝国となります。
CC 表示-継承 3.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=103562734
その結果、東西のローマは別々の国となって異なる運命をたどりますよ。
それぞれどのような運命をたどったのでしょうか?
西ローマ帝国はゲルマン人の大移動を影響を強く受け、476年ゲルマン人傭兵隊長のオドアケルにより、滅亡します。
しかし、もう一方の東ローマ帝国は、ゲルマン人の大移動の影響をあまり受けなかったので、その後1000年以上国は続いていきます。
こうして、ゲルマン人の大移動を経て西ローマ帝国が滅び、時代は古代ヨーロッパから中世ヨーロッパへ移り変わりますよ。
まとめ
いかがでしたでしょうか。今回はローマ帝国について簡単にまとめて解説しました。今回の内容を簡単にまとめると
まとめ
- ローマ帝国=古代ギリシアとともに古代ヨーロッパを学ぶ上で超重要な国
- ローマ帝国成立の背景は好き勝手する王様を追放し、話し合いで政治をするスタイルにしたということ
- 最初は平民と貴族は政治参加の上で平等でなかったが、徐々に制度が整えられ平等になった
- カルタゴと戦ったポエニ戦争は3回に渡って行われ、ローマが勝利した
- ポエニ戦争後、ローマは内乱の1世紀という混乱の時代に陥った→二回に渡る三頭政治→帝政
- ローマの最盛期は五賢帝によるパクス=ロマーナ(ローマの平和)という時代
- パクス=ロマーナ以降はローマは衰退していった→ディオクレティアヌス帝のアントニウス勅令やコンスタンティヌス帝のキリスト教公認を行う
- テオドシウス帝のときにキリスト教を国教化、ローマ帝国を東西に分割
- ゲルマン人の大移動により衰退していたローマ(西ローマ帝国)は滅亡
- 東ローマ帝国は1000年以上続く
という感じです。
ローマ帝国は長いですが、超重要な単元ですよ。頑張って少しづつ覚えていきましょうね。
最後まで読んでいただきありがとうございました。