皆さんこんにちはルリアゲハです。
あなたは今
と悩んでいるでしょう。
この記事を読めば
- 三十年戦争ってなんなのか
- 三十年戦争に参加した国とそれぞれの思惑
- なぜ戦争は起こったのか
- 三十年戦争の4つの段階
- 三十年戦争の結果
について理解できるようになります。
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目次
三十年戦争って何?
三十年戦争というのはドイツ(神聖ローマ帝国)で起こった宗教戦争ですよ。
起こったのは1618年から1648年なので、ちょうど三十年続いた戦争です。
しかし、
と思った人もいるかも知れません。
宗教戦争というのは、同じキリスト教である新宗派とカトリック(旧教)で争う戦争です。
それぞれ
プロテスタント(新教)=宗教改革
カトリック=ローマ帝国の分裂
で生まれました。
宗教改革はルターやカルヴァンが腐敗したキリスト教を改革する一連の流れです。
宗教改革について詳しく知りたい人は
という記事がおすすめですよ。
三十年戦争が起こった時代はカトリックとプロテスタントの対立
が激しい時代でした。
- ユグノー戦争
- オランダ独立戦争
- 三十年戦争
という3つの宗教戦争が勃発します。
オランダ独立戦争について詳しく知りたい人には
(世界史)定期テスト対策向けのオランダ独立戦争(これで完璧)
がおすすめです。
当時起こった宗教改革はヨーロッパ中に広まっていました。
なので、ヨーロッパの多くの国が参加する戦争になります。
どの国とどの国とが戦ったのかというと下の図のとおりです。
(世界史でやる主な国だけを挙げています)
他の三十年戦争の特徴としては、国の常備軍ではなく金で雇われて戦う傭兵がメインで戦ったことですね。
なぜ起こったのか?
では、なぜ三十年戦争は起こったのでしょうか?
実は三十年戦争は宗教的な対立だけでなく様々な要因が絡み合った戦争でした。
その要因というのが
- カトリック対プロテスタント
- フランス王家対ハプスブルク家
- 皇帝対領邦
です。
しかし、一番主な要因はカトリック対プロテスタントの対立ですよ
。当時神聖ローマ帝国ではアウクスブルクの和議で
- 領主以外は信教の自由がない
- カルヴァン派は信仰できない
という不自由な決まりがありました。その決まりが理由で戦争へと発展していきます。
戦争の経過
ヨーロッパ諸国を巻き込んだ三十年戦争は主に4つのラウンドに分けられます。
それぞれ見ていきましょう。
第一ラウンド ベーメンの反乱
まず起こったのは三十年戦争の発端となったベーメンの反乱です。
と疑問に思った人もきっといるでしょう。
ベーメン(ボヘミア)というのは神聖ローマ帝国の一部だった地域です。
現在の国名でいうとチェコですね。
ベーメンはプロテスタントが多い地域でした。
。しかし、神聖ローマ皇帝は熱心なカトリック信者だったのです。
と圧力をかけてきたので、
ベーメンのプロテスタント教徒は激怒し反抗をしました。
そして、周辺の領邦や他国も加わって国際戦争に発展します。
第二ラウンド デンマーク参戦
第二ラウンドではプロテスタント側としてのデンマークが参戦します。
ちなみに、デンマークはプロテスタントの国ですよ。
しかし、カトリック側の傭兵隊長ヴァレンシュタインにより、デンマークは敗北してしまいます。
第三ラウンド スウェーデン参戦
さらにプロテスタント側にスウェーデンも加わります。スウェーデンはプロテスタント国だったので、
「プロテスタントに協力してプロテスタント優位のヨーロッパにしたい」
と考えたのかもしれません。
スウェーデンは国王グスタフ・アドルフを中心に戦いました。このグスタフ・アドルフは優れた軍師だったと言われています。どのぐらいすごいかというと、あのカエサルやアレクサンドロス大王と並べられるぐらいですよ。
ついに、スウェーデンはデンマークを破ったヴァレンシュタインを撃破します。しかし、グスタフ・アドルフが戦死した結果、やむなくプロテスタント軍は撤退することになりました。
第四ラウンド ついにフランスが介入
ついにフランスがプロテスタント側として参戦します。
フランスは王がカトリック教徒のカトリック国なので、普通はカトリック側につきますよね。
でも、なぜフランスはプロテスタント側についたのでしょうか?
その答えは宿敵のハプスブルク家を潰すためです。
神聖ローマ皇帝のハプスブルク家とフランス王家のブルボン家は犬猿の仲でした。
仲が悪くなったきっかけはイタリア戦争でフランスと神聖ローマ帝国が敵対したからですよ
。フランスはイタリア戦争以来ずっと、ハプスブルク家を潰す機会を伺っていました。
そして、三十年戦争でハプスブルク家が追い詰められているという絶好の機会が訪れます。
フランスの宰相リュシュリューは
という理由でフランスが介入することを決めました。
今まで各国は宗教の対立で戦争に参加してましたが、ついに政治的な理由で参加する国が出てきましたね。
こうして、三十年戦争は宗教戦争から政治戦争になったのです。
しかし、フランスの参戦により、プロテスタント側が優勢で三十年戦争は終結しました。
ちなみに、三十年戦争の講和条約(戦争を終わらせるために結ぶ条約)はウェストファリア条約ですよ。
講和条約 ウェストファリア条約
ヨーロッパ諸国は長く続いた戦争を終わらせるためにウェストファリア条約を締結しました。
ウェストファリア条約は、世界初の近代的な国家同士が結んだ条約と言われていますよ。
後の時代でも、起こった戦争を終わらせる時に、必ず講和条約を結びます。
戦争と講和条約はセットで覚えておきましょう。
ウェストファリア条約では以下のような内容を取り決めました。
- 神聖ローマ帝国はフランスにアルザス地方を割譲
- スウェーデンは北ドイツ沿岸を手に入れる
- カルヴァン派も認める(信教が自由になる)
- 皇帝の権力が大幅に制限される⇒神聖ローマ帝国は事実上消滅
- スイス、オランダの独立を正式に承認
それぞれどういうことか見ていきましょう。
まずは領土変更が行われました。変更内容は以下の通りです。
アルザス地方:神聖ローマ帝国領⇒フランス領
北ドイツ沿岸:神聖ローマ帝国領⇒スウェーデン領
新しい領土を獲得した国を見て何か気づきませんか?
そう、どちらもプロテスタント側として戦った国ですね。
なので、戦勝国が領土を拡大したということになります。
さらに、カルヴァン派も認められます。
もともと、カルヴァン派はアウクスブルクの和議では認められていませんでした。
しかし、こんな悲惨な宗教戦争を二度と起こさないためにも、
- カトリック
- ルター派
- カルヴァン派
を全て認めます。結果として、三十年戦争が最後の宗教戦争になりました。
次は、皇帝の権限が大幅に制限されたことについて見ていきましょう。
さっきも言ったように、諸侯には信仰の自由が認められました。さらに、諸侯の領地は完全な独立国になったので、皇帝は諸侯に全く口出しできなくなります。
なので、神聖ローマ帝国は
- 神聖ローマ帝国
- 皇帝
は存在するものの無いも同然となりました。
分かりやすく言うと、300近くの国に分裂したという感じですね。
最後に紹介するのがスイス・オランダの独立が正式に認められたことです。
スイスは150年ほど前にハプスブルク家から独立し、オランダは三十年戦争の間にオランダ独立戦争でスペインから独立していました。
しかし、ヨーロッパ諸国から正式に独立国として認められたのはウェストファリア条約締結時ですよ。
三十年戦争でヨーロッパはどうなったのか
三十年戦争でヨーロッパは大きく変化しました。
どんな変化があったのかというと
- ヨーロッパ主権国家体制成立
- 戦争でドイツの国土荒廃、人口激減⇒ドイツの近代化が遅れる
- オーストリア、プロイセンが繁栄
です。まず、ヨーロッパの主権国家体制が成立したというのは
主権者を中心としたまとまりのある強い国
ができたということです。
次はドイツはどうなったか見ていきましょう。
三十年戦争の主戦場となったドイツは土地が荒れ果て、人口も減ってしまいました。
さらに、神聖ローマ帝国が事実上解体され、国としてもバラバラになります。
こんな状態で近代的な強い国になるわけがないですよね。結果、ドイツは近代化が他のヨーロッパ諸国と比べて遅れました。
一方、神聖ローマ帝国内で2つの国が繁栄します。オーストリアとプロイセンですね。どちらも神聖ローマ帝国の諸侯が建てた国ですよ。
まとめ
いかかでしたでしょうか?
今回はヨーロッパの宗教戦争の三十年戦争について解説しました。
内容を簡単におさらいすると
チェックリスト
- 三十年戦争はドイツ(神聖ローマ帝国)で起こった宗教戦争の一つ
- 戦争が起こった当時はカトリック対プロテスタントの対立が激しかった
- 宗教的な対立以外にも多くの要因で多くの国が参加する戦争に⇒カトリック陣営とプロテスタント陣営に分かれて戦う
- 戦争が起こったきっかけはドイツ領のベーメンが神聖ローマ皇帝に起こした反乱
- その後はデンマーク⇒スウェーデン⇒フランスの順番でプロテスタントに味方する
- ウェストファリア条約で戦争は集結⇒神聖ローマ帝国は事実上消滅
という感じです。
三十年戦争はヨーロッパが近代化する大きなきっかけを作った戦争です。
今回の内容を完璧に押さえて、世界史の成績を右肩上がりにしてくださいね。
最後まで読んでいただきありがとうございました。