皆さんこんにちはルリアゲハです。
高校で世界史を勉強しているとウィーン会議やウィーン体制というのが出てきますよね。
ウィーン会議というのはヨーロッパからナポレオンが姿を消した後、ヨーロッパの主要な国々が集まった会議です。
また、ウィーン会議の後の大きな流れであるウィーン体制を作った会議でもありますよ。
しかし、一体ウィーン会議はどのようなことを話し行った会議なのでしょうか?
新しく生まれたウィーン体制は、この後のヨーロッパにどのような影響を与えたのでしょうか?
この記事では
この記事で学べること
- ウィーン体制とは何か
- ウィーン会議とはどんな会議か?どのようなことが决められたか?
- ウィーン会議を表す皮肉「会議は踊る、されど進まず」はどういう意味か
- ウィーン体制後ヨーロッパでは何が起こったか
について理解することができます。
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目次
そもそもウィーン体制って何?
そもそもウィーン体制というのは一体何なのでしょうか?
ウイーン体制を一言でまとめると
19世紀に起こった再び王中心(絶対王政)のヨーロッパに戻そうという流れ
のことです。
それを実現するために、各国は市民の自由や平等を抑圧するという方向性を取ります。
ちなみにウィーン体制が作られたのはウィーン会議という会議ですよ。
しかし、再び王中心のヨーロッパに戻そうとは一体どういうことなのでしょうか?
これまでのヨーロッパ全体の大きな流れから見ていきましょう。
中世ヨーロッパの時代は王の力は弱かったですよね。
しかし、
- ルネサンス
- 大航海時代
- 宗教改革
を経るうちに各国の王権はどんどん強くなっていきました。
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このようにして王が絶対的に権力を持った絶対王政の時代が訪れたのです。
絶対王政は王や貴族が人口の大半を占める市民や農民を抑圧するという構図でした。
第三身分に当たる平民たちは重い税を他の身分の人から押し付けられ、苦しい生活をしていました。
しかし、そんな絶対王政はフランス革命によって崩され、ナポレオンが軍事力によって革命の影響をヨーロッパ中に広めました。
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今までの説明を図でまとめるとこんな感じですね。
さっきも言ったように、ウィーン体制はフランス革命やナポレオンの影響を一旦リセットし、絶対王政に戻そうという流れです。
この原則のことを正統主義といいますよ。
つまり、王や貴族が自分たちにとって都合に良い絶対王政を復活しようとしたということですね。
もちろんそんなことをすれば市民たちは黙ってはいません。
市民たちからすれば、
という感じです。
そうして、ヨーロッパ各地で反乱が起こります。
また、自由と平等のために反乱を起こす風潮は、今まで虐げられてきた民族にも広まっていきました。
その結果、ナショナリズムという民族としての一体感も高まっていきます。
ウィーン体制を作ったウィーン会議
ウィーン体制を作ったのはウィーン会議(1814~1815)ですよ。
しかし、ウィーン会議は一体どんな会議だったのでしょうか?
ウィーン会議は主要なヨーロッパ諸国の代表が集結し、フランス革命、ナポレオン後のヨーロッパ全体の方針を決める会議ですよ。
もちろん行われた場所はオーストリアのウィーンです。
主要なヨーロッパ諸国の代表が集結したウィーン会議ですが、一体どんな顔ぶれだったのでしょうか?
主なメンバーを見ていきましょう。
主な参加者
- メッテルニヒ(オーストラリア外相)
- タレーラン(フランス外相)
- アレクサンドル1世(ロシア皇帝)
絶対に覚えておきたいのは上の三人ですね。彼らは会議を主導した人たちですよ。
しかし、ウィーン会議は話がまとまらず、なかなか終わりませんでした。
その様子を「会議は踊る、されど進まず」と言いますよ。
どういうことかと言うと、話し合いが息詰まると、毎回のように舞踏会を開いて親睦を深めようとすることに対する皮肉です。
つまり、
「いつも舞踏会を開いて踊ってばかりで、話し合いは一向に進んでいない」
ということですね。
会議で決まったこと
次はウィーン会議で決まったことを見ていきましょう。
会議で決まったことは全てウィーン議定書という形でまとめられました。
一番最初に決まったのは
- 正統主義
- 勢力均衡
という二つの原則です。
正統主義というのはさっきも紹介したようにフランス革命やナポレオンの影響を一旦リセットし、絶対王政に戻そうという原則です。
その結果、
という目的で四国同盟と神聖同盟が結ばれました。
ちなみに、四国同盟はイギリス、ロシア、オーストリア、プロイセンで結ばれたもので、神聖同盟はアレクサンドル1世中心で結ばれた君主間の同盟ですよ。
また、もう一つの勢力均衡は
という原則です。
ここまでは結構あっさりと決まりました。
しかし、この後の各国の領土を決めるのにかなり時間がかかりました。
なぜなら、各国の利害がなかなか一致しなかったからです。
どういうことかというと、
「俺この土地が欲しい」
「いやいや俺もその土地欲しいんだけど」
という感じで各国が揉めてしまったのです。
しかも、勢力均衡の原則により、極端に強い国ができないように領土を決める必要がありました。
そのため、会議はなかなか終わりませんでした。
しかし、最終的には
ウィーン会議で決まったこと
- フランスとスペインは再びブルボン家が治める
- ロシア皇帝はポーランド王を兼任
- プロイセンはザクセン王国、北海、ラインラント獲得
- イギリスはケープ植民地、スリランカ(セイロン島)
- オーストリアはヴェネツィア、ロンバルディア獲得
- オランダは南ネーデルラント獲得
- ドイツ連邦成立
という風にまとまりました。
ここで、
と疑問に思ったかもしれません。
確かに、神聖ローマ帝国が完全になくなったのはナポレオンの時代です。
しかし、神聖ローマ帝国というのは名前だけで、国としてのまとまりは全くありませんでした。
そのことから
「ドイツはを神聖ローマ帝国に戻す必要なんてなくない?別に国としてのまとまりはゼロだったんだし。ドイツ連邦でも実質革命前と同じじゃないの?」
という感じでドイツ連邦となりました。
ウィーン体制に反発!ヨーロッパ各地の反乱
市民から自由と平等を取り上げ、絶対王政の復活を目指したウィーン体制。
もちろん自由と平等を求めていた市民たちは大反発します。
その結果、ヨーロッパ中で自由主義運動や反乱が多発しました。
どこでどんな運動が起こったのか早速見てみましょう。
自由主義運動
- ブルシェンシャフト(学生同盟)ドイツ
- カルボナリ(炭焼き職人党)イタリア
- デカブリストの乱 ロシア
- スペイン立憲革命 スペイン
ヨーロッパで起こった主な自由主義運動は上の通りです。
ドイツで起こったブルシェンシャフトは、名前の通り学生たちが自由を求めた運動でした。しかし、オーストリアによって弾圧されてしまいました。
カルボナリはイタリアの炭焼き職人たちのことで、立憲自由主義を求めて反乱を起こしました。しかし、ブルシェンシャフトと同じくオーストリアによって阻止されます。
パスタのカルボナーラは炭焼職人風という意味なので、炭焼き職人を意味するカルボナリと実際に共通点がありますよ。
余談ですが、カルボナーラは、上に乗っているコショウが炭に似ているからなどたくさんの炭に由来する説がありますよ。
デカブリストの乱はロシアの専制政治を打破する目的で起こりました。
ロシアというのは農奴制があったりして、周辺の国々よりも人々が抑圧された国だったのです。
しかし、反乱はロシア皇帝ニコライ1世によって鎮圧されました。
最後のスペイン立憲革命は
といった目的で行われました。
ただ、失敗に終わります。
このようにヨーロッパ各地で運動が起こり、
という感じで運動はどんどん広まっていきました。
しかし、反乱を止めるために結束した(四国同盟や神聖同盟)ヨーロッパ諸国には勝てませんでした。
ナショナリズムの台頭 フランスで革命再び起きる
ヨーロッパ中で反乱や自由主義運動が起こる中、フランスで再び革命が起こります。
それが七月革命と二月革命ですよ。なんと短期間で2回も革命が起こりました。
ウィーン体制後のフランスはフランスの人々が待ち望んだ自由や平等とは程遠いものだったのです。
この状況を変えるため、フランスの市民たちは立ち上がりました。
自分たちの望む未来は自分たちが立ち上がって手に入れるものだとフランス革命を通じて学んでいたからですね。
一回目に起こったのが七月革命で、革命自体は成功しましたよ。
しかし、その後即位した王も国民の自由や平等を保証してくれなかったのです。
具体的には、金持ちばかりを贔屓した王様でした。
もちろん、
と市民たちは反発します。
その結果、また革命が起きました(二月革命)。
革命は成功し、今度こそ、王のいないフランス(第二共和政)を実現することに成功します。
さらに、二回も革命を起こしたフランスはヨーロッパ諸国の自由を求める人々の士気を高めていきました。
その結果、ヨーロッパ中で虐げられてきた人々が立ち上がる諸国民の春というムーブメントが起こります。
例えば、
諸国民の春
- プロイセンやオーストリアで起こった三月革命→メッテルニヒ失脚
- ポーランドでのロシアからの独立運動
- オスマン帝国からの独立を目指したギリシア独立戦争
- ベーメン、ハンガリーのオーストリアからの独立運動
などですね。
このようにして、ヨーロッパのナショナリズム(〇〇人、〇〇民族としての仲間意識)が強まりました。
ヨーロッパ各国の変化 イタリア・ドイツ・イギリス
正統主義とナショナリズムという風潮を作り出したウィーン体制。
その結果の一つとして、二つの国がようやく統一へ向かっていきますよ。
さてどの国でしょうか?
答えはドイツとイタリアです。
どちらの国も長年小さな国がバラバラに存在しているという感じでしたよね。
(ドイツは名目上神聖ローマ帝国という一つの国でしたが、実態は小さな国が分立していました)
そんなドイツとイタリアが統一していきます。
もちろんどちらの国にも統一への大きなハードルがありましたが、それはまた別の機会に解説しますね。
ドイツ・イタリアの統一
ドイツはプロイセンという国を中心にドイツ帝国として統一されました。
ドイツ統一に大きく貢献したのは、鉄血宰相ビスマルクとドイツ皇帝(プロイセン国王)ヴィルヘルム1世ですよ。
(そのことが鉄血宰相というニックネームの由来ともなっています)
一方、イタリアはサルデーニャ王国を中心にイタリア王国として統一されます。
主にイタリア統一に貢献したのはサルデーニャ王ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世とその首相カブール、赤シャツ隊のガリバルディですよ。
サルデーニャ王国は北部・中部を統一し、義勇軍の赤シャツ隊は南部を統一しました。
最終的にはお互いが手を取り合って、イタリア王国にまとまったのです。
イギリスの改革
また、イギリスもウィーン体制によって国内が変化していきます。
と疑問に思ったかもしれません。
イギリスで起こった変化は議会による自由主義的改革です。
元々イギリスは王よりも議会の影響の強い国でした。
なので、自由を求める市民たちは反乱を起こさなくても、議会で話し合って改革すれば大丈夫だったのです。
つまり、他の国と違って平和的に自由や平等が勝ち取られたということですね。
改革の例として、
- 審査法の廃止→議会での宗教差別撤廃
- 貿易の自由化
などがありますよ。
ここまでのウィーン体制がきっかけで起こった変化をまとめると
まとめ
- イタリアの統一
- ドイツの統一
- イギリスの自由主義的改革
という感じですよ。
まとめ
いかがでしたでしょうか。
今回はウィーン体制とウィーン会議、そしてウィーン会議後に起こった変化について見ていきました。
今回の内容を簡単にまとめると
今回のまとめ
- ウィーン体制はフランス革命・ナポレオンの影響をリセットし、絶対王政の復活を狙った→市民の自由や平等を抑圧
- ウィーン会議はメッテルニヒ、タレーラン、アレクサンドル1世を中心に行われウィーン体制を作った
- ウィーン会議の原則は正統主義と勢力均衡
- ウィーン会議を皮肉るフレーズ「会議は踊る、されど進まず」は膠着状態となった会議を皮肉った
- その結果、ヨーロッパ各地で反乱が起こったが多くは鎮圧された
- フランスでは七月革命・二月革命が起こり、ヨーロッパ中に大きな影響を与えた→諸国民の春が起こる
- ウィーン体制はドイツ・イタリアの統一、イギリスの自由主義的改革にも影響を与えた
という感じです。
今回の内容を押さえて、世界史の成績を上げるのに役立ててくださいね。
最後まで読んでいただきありがとうございます。